21.

 夜の宴席は盛大だった。
 諸侯はよそよそしかった。それはヘクトールの酷い火傷痕に慣れない所為であり、堂々と顔を晒しているからでもあった。
 ヘクトールは、ナズィーラが来るのを見つけると、側に走り寄った。
「ああ、来てくれたのだな。よかった。父公さまも。ファラーラさまも来られたのですね。」
と歓迎した。
 トゥーリとファラーラのことは、嬉しい気持ちはあったのだろうが、付け足しに言ったと明らかだった。
「ジェールの南は草原の入り口だ。春や夏に、遠乗りに来るといい。」
「それは楽しみです。父公さま、いやシークの草原。美しいファラーラとシーク、可愛い“ひばり”を育んだ所。ずっと見てみたいと思っていました。お招きいただき光栄です。……ファラーラさまの婚約者は? 一度ご挨拶したい。」
 ファラーラは、責められるのだろうかという気持ちがあった。アマラードは随行して、控えで待っている。連れて来ることは可能だが、心配があった。父に問いかけると、惑った顔をしたが、自ら控えから呼び出してきた。

 アマラードは初めて見たヘクトールに少し驚いたが、すぐに平静を取り戻し
「アマラード・ニャールセン。シークの近習。ラザックの宗族の出です。」
と名乗った。
「ね。熊みたいな男でしょう?」
 ナズィーラがくすくす笑って、ヘクトールを見つめた。
「それは……狼というよりは大きな熊だけれど……失礼なことを申した。アマラード、すまん。」
 アマラードの笑うのを見て、彼も苦笑した。
 やがて、アマラードを帰すと、ヘクトールはファラーラに共に帰ってはどうかと提案した。彼女が同意して去るのを眺めて
「幸せにお暮しになるでしょう。」
とトゥーリとナズィーラに言った。少しだけ、切ない響きがあったが、表情は晴れやかだった。
 トゥーリは
「俺も帰るよ。」
と言って、ナズィーラに含みありげな視線を向け、退出した。

 トゥーリがいなくなると、貴族たちは、ヘクトールとナズィーラに好奇心丸出しの目を向けた。
 どんな仲なのだろうかという目だったが、嘲笑しているとわかる目もあった。
 とうとう側に来て尋ねる者が現れた。
 ナズィーラが答えあぐねていると、ヘクトールは
「私が外に出る勇気を与えてくれたのが、この姫君なのです。」
と答えた。
 相手は鼻白み
「それは、それは、大恩人ですなあ。」
と皮肉交じりに言った。
「そう。ひばりは美しい歌声で、いつも人の心を慰め、陽気にさせますから。」
「ああ、その姫君は天性の詩人でしたね。一曲どうぞ。」
 たいして称賛している風でもなく、相手はそう言った。
「ほら、ナズィーラ。彼が君に、皆を感動させる歌をうたう機会をくれたよ。」
 彼女は、その公達が望んでいるとは思えなかったが、向こうっ気が起きた。
「これは、ヘクトールの為の宴。ならば、私はヘクトールの歌をうたう。ヘレネスの盲目の詩人のうたった第六番目の歌をね。」
 ナズィーラはヘクトールに目配せした。彼は困ったような顔をした。

 諸侯は、物語のヘクトールが名誉と国に殉ずる覚悟を述べる言葉に、ほっと息をつき、満足そうに微笑んだ。
 ナズィーラは、相応しく重々しく歌った。彼女はその一節が終わると、リュートの上の指を止め、ため息をついた。皆の促す様子をねめつけ、今度は、ひどく切ない口調で続けた。
 父母の嘆き、トロイアの兄弟の悲運、それよりも苦しいのは、妻の辛酸の運命。それこそをヘクトールは気にかけ、妻の悲嘆を見聞きするくらいなら、冷たい墓の下に入りたいと思う。
 ヘクトールはそう妻に告げたと歌うと、彼女は楽器を置いた。
 諸侯は鼻で笑った。
「なんともまあ……弱々しいことを……。勇ましいはったりの後で、ひときわ女々しく聞こえますな。」
と誰かが言った。
「ヘクトールは人の弱さを知る人。己のうちの弱さと矛盾を見つめ、それでも闘う者こそ、勇者と言う。」
 ナズィーラはそう結んだ。
 皆、白けた様子だった。
「このひばりの姫君は、人々を陽気にするのにも、奮い立たせるのにも失敗いたしましたな。」
 誰かの苦笑まじりの言葉に、皆失笑し、彼女への関心を失って散って行った。
 それでも、彼女は胸を張っていた。

 ヘクトールはナズィーラの側により、肩に手を置いた。
「皆は、“ヘクトール”の弱さと切ない願い、人間らしさが嫌いらしいね。自分の中の弱さを認めたくないのだろう。」
と言って、微笑みかけた。
「あら、私はあの人たちのことなど、どうでもいいわ。自分から目を背ける臆病者のことなどね!」
 苦笑するヘクトールに更に続けて
「あなたこそが、ヘクトール。自分の弱さを知る強い男。」
と言った。
 彼は天井を見上げた。しばらくそうすると、広間に向かって
「皆、宴はこれまでだ!」
と宣言した。
 そして、ナズィーラに
「君を……屋敷まで送る。行こう。」
と言い、どんどん先を歩いて行った。
 彼女は小走りに追いかけた。彼は前を向いたまま
「さっきの歌……涙が出そうだった……」
と、ぽつりと言った。

 二人は、控えで馬車の用意が整うのを待った。そこへ何人かの若い公達が現れた。彼らも帰りの用意を待っていた。
 特に話しかけられることもなかった。気に懸けることもなく、二人で話していると、一人が笑い出した。
 一同がいぶかしげな視線を向けた。すると彼は
「端正な侯爵と絶世の美姫。とてもお似合いです。」
と笑い転げた。聞いていた別の一人がにやりと笑い
「それは失礼だろう。相手の見つからない同士が、やむを得ず一緒にいるだけなのだから。」
と応えた。
 仲間内で、ひとしきり笑うと
「そんな顔で、よく出てこられるものだ。」
と言って、二人を見た。
 ナズィーラは立ち上がり、その若君に走り寄ると、肩を突き飛ばした。
「あんたなんか! 鏡を見なさいな! 意地の悪さで、顔が歪んでいるわよ! それとも、それさえもわからないくらい目が曇っているのかしら?」
「ナズィーラ、お止め。そんな者に、言葉は届かない。」
 静かにヘクトールが諌めると、怯んでいた相手は挑戦的に胸を反らし
「まったく……不細工な上に、荒々しい。草原の者は、慎みというものを知らん。」
と言った。
 ヘクトールは黙って、彼の前に立った。そして、襟元を掴み上げた。
「私の“ひばり”に無礼を申すな。顔は損なったが、私の武芸の腕前は損なわれていないぞ。」
 今度はナズィーラが止めた。
「ヘクトール、“そんな者に言葉は届かない”のでしょ? 放っておけばいいわ。」
 ヘクトールは手を離し、大声で笑い出した。
 皆は気まずそうにお互いを見やって、部屋から出て行った。
 やがて、馬車が来たと小姓が告げに来た。
「帰ろう。……君を父公さまの屋敷へ帰さねばならん。」
 その言葉には、ひどく哀しげな響きがあった。

 馬車の中で、ヘクトールはナズィーラの手を握ったままだった。
 降ろす時、彼は彼女の頬を撫で
「君はいつ草原に帰るのかな?」
と尋ねた。
「父さまは、馬車が動くようになったら、すぐ出発すると言った。」
「そうか。その……ジェールの城はとても大きいそうだ。」
「ええ……」
「独りで過ごすには、寂しい広さだろう。」
 ナズィーラはどきどきしてきた。期待感だったが、見当はずれでがっかりしないように抑え込んだ。
「君がよければの話だが、ずっと私の側にいてくれ。」
 望んではいけないと抑え込んだ気持ちが溢れそうだった。彼女は、どう答えていいのか惑い、俯いた。
「人は灯りを見ると、安心する。暗い闇の中、君のその黄金の瞳は、私に行く先を指し示す灯りだ。」
 顔を上げると、彼はじっと彼女の瞳を覗き込んでいた。
「……私が道に迷ったら?」
「私が君の手を引くよ。……私の側は嫌か?」
 ナズィーラは黙って何度も首を振った。
「おや、潤むと……川底に煌めく砂金のようだ。私は、得難い黄金を手にした。盗られないうちに、川の神に貰い受けなくてはね。」
 ヘクトールは微笑んで、彼女の涙を指で拭った。



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