18.

 ナズィーラはヘクトールに貰った本を一心に読んだ。長い物語を読むのは骨が折れ、時間がかかったが、彼に関するものだと思うと、喜びだった。
 一日分を読むと、彼女は寝台に持ち込み、本を抱きしめて眠った。ヘクトールを抱きしめている気持ちになった。そうすると、胸の底が暖かかった。

 ファラーラはアマラードとべったり過ごしている。父は、馬車が動く天候になれば、ラザックシュタールへ帰ると言う。二人とも、早く帰りたいと言わんばかりの表情だった。
 だが、ナズィーラは、ヘクトールと同じ空の下にいられなくなると思うと、寂しくて仕方がなかった。家族の中で、自分だけが草原へ帰るのを惜しんでいる。
(この本だけが、ヘクトールとのつながりになって残る……。)
 彼は自分とのことなど、つながりを欲するはずもない。すぐに単なる思い出として、処理されてしまうだろう。哀しかった。
 読み終えたら、ヘクトールとのつながりが薄くなるような気がして、終わりを先延ばしするように、一日分の頁が減っていった。

 とうとう本を読み終えると、寂しさが残った。
 ヘクトールは“差し上げる”と言ったけれど、返すのに事づけて会いに行こうかと考え始めた。
 破談になった相手の妹と会うのは嫌だろうと思うと、惑った。
 “君と話していると落ち着く。”
 ヘクトールの言った言葉を思い出し、また惑った。
 結局、美しい装丁の立派な本だから、もったいないから返すだけだという理由で自分を納得させた。
 父に話せば反対するだろうと思い、ファラーラにだけ告げた。姉は感心しないと言ったが、止めはしなかった。
 父が城に上がっている間に、彼女はこっそり一人出かけた。

 屋敷に到着し、案内を請うと、執事は眉をひそめた。
 草原から出たことのなかったナズィーラは知る由もなかったが、早朝は貴族の屋敷を訪ねる時間ではない。
 当主は朝参しているし、その他の家族は、まだ寝室でまどろんでいるのがいいところなのだ。
「ラザックシュタールのお姫さま、都の者にはまだ真夜中のお時間ですよ。」
 執事は申し訳なさそうに告げた。
 出直せと言っているのだとわかった。更には、会わせたくないと思われているのかもしれないと思った。
 しかし、決心して来たからには、ヘクトールに会うまで帰るつもりはない。
「もうお日さまは高いわ。」
「若さまは、まだご寝室。日の高さよりも、月の方が、あの方には望ましいでしょう。どういった御用件で?」
「本を返しに来たの。直接ね。」
 きらきら目を輝かせて言うナズィーラに、執事は苦笑した。
「私からではいけないのでしょうね?」
「ええ! 直接返すのよ。客間に通して。ヘクトールが支度する間、待っているから。」
 毎日のように訪れていたナズィーラが、ヘクトールに好意を持っているのを、執事は知っていた。小鳥の囀るような美しい声の陽気なこの娘に、好感も持っている。彼は言う通りにしてやった。

 ナズィーラは、自分を押し通して面会を求めたことを、少し後悔した。
 待っていると、すぐにヘクトールが現れた。寝台でぐずぐずしていたのではなさそうだった。
 彼女は会ってもらえたことは嬉しかったが、彼がどうなのか表情を探った。
「おはよう。どうしたのかな? 本はあげると言ったんだが……?」
 彼は不愉快そうではなく、戸惑っているだけのように見えた。
「立派な本だから……」
「持っていればいい。」
 きっぱりした応えだった。
(やっぱり……内心会いたくなかったのかな……?)
 ナズィーラは俯いた。

「……どうだった?」
 突然の問いかけに、彼女は戸惑った。
「“ヘクトール”は勇ましくて、立派だっただろう?」
「いいえ。」
 彼は微笑んで
「どうしてそう思うのかな?」
と尋ねた。
「彼は、最後の闘いの前に怖気づいたもの。トロイアの城壁を三周走って逃げた。それから、アキレウスに、自分の亡骸への敬意を懇願した。普通の人よ。」
「でも、勇気を奮って、運命に対峙した。国に殉じた。」
「いいえ。あなたはどこを読んだのよ?」
 彼女が笑うと、彼も苦笑した。
「君の講釈を聞くことにしようか。」
「いいわ。“ヘクトール”は、表向きは国を守る為に闘ったよ。それは否定しない。でも、六番目の歌をお読みなさいよ。奥さんに、“君のことが心配で仕方がない”って言っていたわ。奥さんが捕囚になって、酷い扱いを受けることこそ怖れていた。本当は、その為に闘ったの。」
「……珍しいことを聞いた。男と女では目の付け所が違うようだね。どちらにしても、何かを守る為なんだ。立派なことだ。私には真似ができない。」
「あなたにはまだ守るものがないだけ。それができれば、あなたはきっとそうする。」
「一生、そんなことはないだろう。私はこの顔を受け入れることに精一杯だ。」
 ヘクトールは軽く笑ってみせた。
(また気にしている……自分を卑下している。)
 彼女は苛立った。だが、責めることはしなかった。
 “お前だけにしかない輝きが、お前の存在を指し示す。”
 人を人々の中から際立たせるのは、己自身にしかないもの。彼は、己の煌めきを知らないだけなのだ。



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