16.

(一気にやってくれ……!)
 アマラードは、冷たい刃が喉に食い込むのを待った。
 刃が返った。彼の背がぞくりと冷えた。
「髭が伸びているぞ。剃り残したか? ……お前、濃いんだね。首から下は全部繋がっている感じか?」
 優しげな声だった。
 アマラードは目を開け、視線だけを動かして様子を眺めた。トゥーリは憎々しげな顔をして短刀を動かし、彼の伸びかけた髭を剃っていた。
「結婚式の日は、念入りに髭を剃れよ。それだけだ。行け。」
 トゥーリはアマラードの髪を放し、そっぽを向いて短刀をしまった。
「あの……」
 アマラードは、言葉の意味を問いたかったが、トゥーリは
「老いた獅子は、挑む若獅子と闘うことは無い。莞爾として、その道を譲るのみだ。」
と言い、彼の横を通り過ぎた。
 トゥーリは控えに続く扉を開け
「ファラーラ! お前の男、生かしておいたぞ! もう、俺は知らん。勝手に幸せになるがいい。不幸になる自由もある。……ただし、結婚式には呼べ。さんざん悪態をつく予定だからな。あと……うるさいくらい訪ねて行くから、覚悟しておけ。」
と怒鳴った。
 ファラーラはトゥーリには見向きもせず、部屋に走り込み、跪いたままのアマラードに駆け寄った。
「親父の機嫌より、男の無事かよ? 五体満足だよ。」
 彼女は
「父さまは、無暗に人殺しをしないと信じていたわ。」
と呟いた。
「娘に手を出すような大罪人は、馬の尻に括り付けて、草原中を引きずりまわしてやりたいところだが……。そいつは……まあ、いい戦士だから。俺の許から失われるのは惜しい。それだけだよ!」
「また、そういう強がりを言う。私に一生恨まれるのが怖かったくせに。」
「うるせえ! 泣いて感謝するかと思ったら、それかよ?」
「そんなことをしたら、父さまは死ぬまで、事あるごとに言っては嗤うんだから。するわけがないわ。」
「生意気な女だ! アマラードの方がまだ殊勝だったよ。腰を抜かしているから、介抱してやれ。」
 トゥーリは眉間に皺を寄せ、不愉快でしかたないといった顔を彼らに向け、部屋を後にした。
「ありがとう、父さま。」
「ありがとうございます、シーク。」
 二人が寄り添いながら、トゥーリの後ろ姿に平伏した。ファラーラの下げた顔は泣き顔だった。
「感謝されるようなことはしておらん! お前らのことを黙っていた近習仲間や女がおるだろう? そいつらを代わりに血祭りだ! 女は、髪を刈りこんでやる!」
 できもしないことを言い、振り向きもせず退出したトゥーリの頬にも、涙が光っていた。

 翌日、ナズィーラは、朝食の席にファラーラがいないのに気づいた。
 トゥーリを見ると、目の下にうっすらくまが出来ていた。不機嫌そうに、料理をぐしゃぐしゃと突いている。
 ナズィーラは、恐る恐るわけを尋ねた。
 彼は渋い顔をし
「顔を合わせにくいんだろうよ。昨晩、あの愚か者どもは、俺の寝間にまで押しかけて狂ったことを言い出した。」
と憎々しげに答えた。
 ナズィーラは長いため息をついた。その様子を見て、トゥーリは
「お前……知っていたな?」
と睨んだ。
 初めて見る物騒な目だった。もうばれたのだと思った。誤魔化すことは不可能だ。
「はい……」
 怒鳴られるのかと竦んだが、父は笑い出し
「姉妹で共謀していたか。さっぱり油断していた。ファラーラはともかく、お前にも、これからは気をつけねばならないってことだな。」
と言った。
「……私は、ファラーラに言ったの。都に行く話を聞いたときにね。アマラードのことをどうするのかって。……アマラードは最初、自分たちのことを父さまに話そうって言った。でも、ファラーラはいろいろ考えて、そうしなかった。」
「いろいろって何だよ?」
「草原と都のことよ。兄さまの結婚の時のこと、ファラーラには無視できなかったんでしょ。」
「くだらんことを……」
 そう言ったものの、またトゥーリは昔の自分を思い出した。遠い日、ファラーラと同じように、すべてを諦めようとして、できなかったこと。
「俺のじいが言ったよ。“最初から出来ないことはしないことです”ってね。」
「……都へ来てからも、ずっと二人でどうするべきか話し合っていた。最後は、ファラーラの言うことを通したのね。」
 ナズィーラはぽろりと涙を落とした。
「何故、泣く?」
「ファラーラが……アマラードも。それにヘクトールも、ヘクトールは何も知らないけれど、三人とも可哀想。」
「……最初からできないことはしない方がいいって、俺は学んだんだよ。今回、他人に強いてはいけないことも学んだ。ファラーラはまあ……なんだ、娘だからな。大悪党のアマラードは八つ裂きに……」
 父は言葉を切った。ナズィーラは大声を挙げた。
「八つ裂きって!」
 父はにやりと笑い
「そうしようかと一瞬思ったんだが、止めておいた。」
と言った。
 彼女はホッとしたものの、彼らをどうするのか気になった。
「それで?」
「ファラーラはアマラードと結婚する。」
 父は不愉快そうだったが、本心からそうではないことは丸わかりだった。
「渋い顔をしてみせなくてもいいわ。内心嬉しいんでしょ? ファラーラが喜んでいるんだから。」
 父は目を逸らし
「まあな!」
と吐き捨てた。
 ナズィーラは失笑した。



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