黄金の瞳
11.
粉雪が毎日のようにちらつき、寒い日が続いた。
ファラーラはますます不調を託つようになった。
ヘクトールを訪ねるのはナズィーラばかりだ。彼女の日課になっていた。
当初、彼はファラーラが来ないことにがっかりした様子だったが、口に出すことはなく、ナズィーラの訪問を喜んだ。
「今年は雪が早いね。それに、身を切るように寒い。」
ヘクトールは、いかにも寒さが堪えるといった様子だった。都の生まれ育ちだろうに、寒さに慣れないのだろうかと不思議に思い、尋ねると
「怪我をすると、治ってからも寒さに疼くと聞いたが、私もそのようだ。背中に鈍い痛みがあるんだ。そのせいで、あまり眠れない。」
と答えた。
ナズィーラは、骨折した者が同じようなことを言っていたのを思い出した。おそらく、ヘクトールも事故の時に骨を傷めたのだろうと思った。
そして、ラザックシュタールの屋敷で、大食の医師が彼らに施していた手法を、すぐに思いついた。
屋敷にある蒸し風呂に、薬草の蒸気を満たし、叩いて麻袋に入れた薬草の入った湯に浸かって、身体を温める方法だった。
都の貴族の屋敷には、風呂場は常設されていない。入浴するに応じて、桶を運び込んで、湯を張るのだ。
ラザックシュタールの屋敷と同じことはできないが、湯に薬草を入れれば、似た効果が得られるのではないかと考えた。
「お湯に浸かるといいんじゃない? 冷えると痛むんでしょう? 温めれば、少しはよくなる。」
「そうかもしれないね。」
ヘクトールは興味がなさそうだったが、ナズィーラは決め込んで、小姓に用意を頼んだ。
ヘクトールの寝室に桶が運び込まれ、厨房から湯がどんどん運び込まれた。湯が満たされていくのを眺めながら、ナズィーラは女中に
「薬草はある?」
と尋ねた。大食の医師の使っていたものを、思いつくままに言ってみた。
しかし、この家にはあまり種類はなかった。彼女が告げたもののうち、数種類だけがあった。
用意された薬草を麻袋に入れ、湯の中で軽く揉むと、爽やかな香りが広がった。
ヘクトールに浸かるように促すと、彼は逡巡した。
「気にしないで。私が背中をさすってあげるから。」
笑いかけると、彼は困った顔になり
「小姓に頼むからいいよ。」
と言った。
「沐浴の手伝いをするのって、女じゃないの? 裸を見られるのが恥ずかしいの?」
「そういうわけでは……」
少々の拒否をにじませながらも、彼は承諾した。
服を脱ぐのは見ないでおいた。彼が浴槽に浸かる音を聞いて、彼女は彼の背中側へ歩み寄った。
彼女はハッと息を詰めた。彼の背中には大きな傷があった。彼に残酷なことを強いたのだと思った。
気付いた彼は、苦笑し
「驚くよね。重い金の環が落ちてきたんだ。蝋燭を立てる釘が刺さって……。皆が慌てて、引きずり出したものだから、酷い傷になった。責められもしないけれどね……」
と言った。
彼女は努めて明るく
「少しだけ驚いた。でも、父さまも背中に傷があるから、びっくり仰天でもないわ。父さまのは、えぐれて酷いの。あなたのはそうでもない。」
と応えた。言ってから、慰めにもなっていないと思った。
ヘクトールは何も言わなかった。ナズィーラは湯を掬い、指先に力を入れ、背中をゆっくりと撫でた。
しばらくすると、彼はほっと息をつき
「少し楽になってきたようだ。」
と言った。
「カモミールとオトギリソウとメリッサ……大食の医師はもっといろいろ使ったけれど、このお屋敷にあるのはこれだけだった。でも、効き目はあったのね。」
彼女は、湯を足し、温度が下がらないように注意しながら、背中をさすり続けた。
ヘクトールは目を閉じ、心地よさそうにしている。ナズィーラはだんだんと気恥ずかしくなってきた。無理をして話題を探した。
「ヘクトールって名前、ヘレネスの名前よね。お父さまのマグヴィさまは、さまざまな学問に通じていらっしゃるそうだけれど、あなたの名前はどういう謂われがあるの?」
沈黙の後、彼は
「トロイアという国の王子の名前だ。誉れ高い戦士でもある。女神の息子だという不死身の英雄と、正々堂々と闘って亡くなったそうだ。……男の中の男と言われている。」
と言った。少し嘲る調子があった。それには気づかないふりをして
「素敵な名前じゃない。その伝説は興味があるわ。」
と言うと
「父上の書斎に本があるかもしれないな。聞いてみよう。……素敵かどうかわからないよ。今の私には過ぎた名前だね。女々しいのだから。」
と、最後は悔しそうな呟きに消えた。
彼女は、何と言葉をかけていいのか迷った。深い哀しみを感じると共に、哀しみとらわれたままの彼に対する苛立ちもあった。
「……顔だけでも厭わしいだろうに。こんな身体の男と結婚生活を送るなど、どんな女人でも嫌だろう……。今度の話、私から断れば、姫君も心安いだろうに、できないんだ。困ったことに、あの人を諦められなくてね……。もしかしてと思うん
だ。可笑しいな。」
乾いた笑い声が挙がった。
深い悔しさと、切ない望み。ナズィーラはもう言うべき言葉がなかった。
ヘクトールの肩に、ぽとりと涙が落ちた。彼女は慌てて涙をぬぐい、背中をさすり続けた。
彼は気づいたのか、そうでないのか、何も言わなかった。
足し湯が尽きると、充分だと言って、ヘクトールは立ち上がった。
「君のおかげで楽になった。今晩はよく眠れるだろう。既に眠気がさしてきた。」
「よかった。早めに床へ入るといいわ。私は帰るから。」
彼女は、帰りたくはなかった。残念だったが、何でもないように取り繕って微笑んだ。
「そうか。また来てくれ。君と話していると落ち着く。」
ナズィーラは、帰りの馬車の中で号泣した。
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