9.

 ヴィダルがレニエに入るのに、予想したような困難はなかった。王の軍勢がいるのは本当で、誰何されたが、知り合いの農夫が身元を保証すると、厳しい追及は受けずに済んだ。
 ヴィダルは農夫の荷馬車に乗せてもらい、城へ向かった。
 領民の様子は明るいとは言うべくもないが、一触即発の空気はない。少し安堵した。
 それでも、戦闘の場になったらしく、荒らされた畑が広がっていた。
(美しい葡萄畑が……)
 ヴィダルは顔を背けた。
 今までのことを尋ねると、農夫は
「お前、遅せえんだよ。」
と睨んだ。
「城は? 奥方さまたちは大丈夫なのかい?」
「奥方さまは、お城の奥にいらっさるさ。奉公人も前の通りだが、執事のじいさまは死んだよ。」
「いろいろやらかしたって聞いたぞ。じいさまが先頭に立ったのか?」
「そうじゃねえよ。」
「なんでだ?」
「知らねえ。ぶっ叩かれるやら、切り刻まれるやら……ひでえ骸になっていたって話だ。やつら、うまくいかねえから、腹立ちまぎれになぶり殺しにしたってところだろ。」
 農夫は吐き捨てるように言った。
 やがて城の大手に着くと、礼を言って農夫と別れた。
(リオネルさまのこと……確かな話でもない。生きておられても、これからどうしていいのか……)
 あやふやな話をして、下手な希望を与えるのはどうかと惑った。まず相談してみたかった執事が死んでいるのも、想定外だ。
(だったら……順当なところでは、奥方さまかなあ……。でも、リオネルさまとはアレだったし……)
 冷淡な母子関係を想うと、話してどうとなるものかわからなくなった。また、彼は気位の高い奥方が苦手だった。
(ま、仕方ないや。)

 ヴィダルが奥方を訪ねて行くと、控えでずいぶんと待たされた。
(やっぱり嫌な女だよ。従者ごときにはすぐ会えないってことか。)
と舌打ちしていると、奥から三人の男が出てきた。
(なあんだ、別な客がいたのか。)

 奥方は、ぼんやり窓の外を見つめていた。ヴィダルが
「奥さま、お目通りをお許しくださり、ありがとうございます。」
と挨拶すると、彼を一瞥して
「お前は、確かにリオネルの従者だった男ですね。」
と言った。
 従者の顔を覚えているのは意外だった。
「はい。ヴィダルと申します。」
「そう。それで、何用です?」
 奥方は冷淡な眼差しを向けている。
「ええっと……話せば長いことながら……」
「もう良い。」
 ぴしりと留められ、彼は首をすくめた。
「もう良いのです。」
「はあ……しかし……」
 奥方は卓の上にあった林檎を取り上げ、弄んだ。
 ヴィダルは、会話の糸口がつかめず、黙ってその様子を眺めた。
「……昔ね。」
 唐突な言葉に
「はい……?」
と訊き返すと、奥方は苦笑し
「お前はリオネルと、いくつも違わないのでしょう?」
と言った。
「はい……」
 彼女はヴィダルから視線を外し、手の中の林檎を見つめながら話し始めた。
「昔ね、わたくしの従兄の侯の結婚式に招かれて。わたくしがまだ幼い娘のころよ。サーシャもそれに招かれていた。わたくしは、その時初めて彼と会ったの。」
 奥方はくすりと笑った。ヴィダルは何を言いたいのかわからず、気味が悪かったが、その先を待った。
「それからも、侯の宮廷で何度もサーシャを見たわ。彼はご婦人にとても人気があって……。わたくしと話すことなどなかったし、わたくしのいるのも知らなかったでしょう。」
 さらさらと独白が続いた。
「サーシャと……結婚するように命じられて……。わたくしは、彼は望んではいないのだろうと思って、嫁ぐのは嫌だった。貴族の結婚など、そういうものだけれど……」
「レニエに着くと、サーシャは大手門まで出て待っていて……。わたくしの手を取って、“ようこそ、私の花嫁”と微笑みかけた。」
 彼女は話を切り、ヴィダルに視線を向けると
「わたくしは、どうしたらいいかわからなくて……。あんな微笑みを向けられた時、どうすべきか教えてくれた者などいなかったから……。きっと固い顔をしていたのでしょうね。サーシャは苦笑いしていたわ。」
と、困ったような笑みを浮かべた。
「ええ……」
 ヴィダルは小さく相槌を打つに留めた。奥方はまた彼から視線を外して、話を続けた。
「いつもそうだった。サーシャがすることに、わたくしは上手く応えられなかった。がっかりしていたのでしょうね。……リオネルが生まれて、彼は大喜びして、わたくしを褒めてくれたけれど、わたくしはまた上手く笑えなくて……。リオネルの中の名前に、わたくしの父の名前を付けてくれたのに、ありがとうの一言も言えなくて……」
 彼女は、そこで話を切った。ヴィダルがこっそり伺うと、眉を寄せ、林檎を睨んでいた。
「サーシャがわたくしに笑いかけてくれなくなったのは、いつごろだったかしら……?」
 彼女はほっと息をついて、黙りこんだ。

 もう話は終わったのだろうと思うほどの間があった。
 彼女はヴィダルをぎっと睨むと
「わたくしは罪を犯しました。」
と低く囁いた。
「え?」
「サーシャが、下女の産んだ男の子を探していると知って、わたくしが先に探し出さねばならないと思ったのです。」
「えっと……」
「それほどまでに、リオネルを疎むのかと。わたくしが産んだから? わたくしに似ているから? ……カスティル=レニエの正当な息子は、リオネルだけなのに。サーシャだって、リオネルの誕生をあんなに喜んだくせに!」
 奥方は白い面を紅潮させ、虚空を睨んでいた。恐ろしい形相だった。ヴィダルは身震いした。
「あの……」
と控えめに言うと、奥方ははっと彼を見て、表情を和らげた。軽い笑い声さえ挙げた。
「あの子をどうにかする前に、サーシャが亡くなってくれてよかったわ。リオネルと鉢合わせした時は、もうダメかと思ったけれど……」
「リオネルさまと鉢合わせって……?」
「ああ、サーシャの手の者をリオネルが退散させたのよ。あの子供を連れ出せる寸前だったのにね! さすが、わたくしの息子。知らぬまでも、わたくしの味方になってくれた。」
 奥方は愉快そうに一頻り笑った。しかし
「柄にもない悪事を企むから、苦しむのよ。リオネルを殺す覚悟もないくせに。……詰めが甘いわ、サーシャは! ……わたくしも……。サーシャだけではダメだったのね……」
と言って、今度は涙を落した。

 奥方はヴィダルを見つめた。何か言うのを待っているようだったが、彼には言うべき言葉が見つからなかった。
 彼女は弄んでいた林檎を切り分けると、彼に差し出した。ひとつ摘み、食べるともなく見ていると
「食べないのですか?」
と尋ねられた。
「いえいえ……」
「何? 何かあるのなら、言いなさい。」
「その……何故、そんな話を?」
「……先程の男たち、王さまのお遣いです。程なく、新しいレニエの伯爵が到着するそうです。」
「それは……?」
「そう。サーシャが探し出そうとし、わたくしが殺そうとしていた秘密の子供。執事が……告白を強いられました。」
「奥さまは罪を犯したとおっしゃったけれど、その子供を殺めなかったのでしょう? 何の罪です?」
「物分かりの悪い男だこと。」
 奥方は軽く笑って、それ以上答えなかった。

 ヴィダルは、持っていた林檎を口に運んだ。奥方は庭園に向いていたが、突然どさりと倒れた。
 慌てて側に寄り、助け起こして見ると、首元に林檎を切った小刀が刺さっていた。ヴィダルは小刀に手を掛けた。奥方は彼の手を押さえた。
 そして、苦しげに
「下女の息子などに……」
と呟いた。瞬きと共に、ほろりと涙がこぼれた。
「ええ……」
「腰をかがめるのは嫌……」
「ええ……」
「……いつもクルジェ……。サーシャとリラ。リオネルとエレナ。」
 奥方の手に力がこもった。女とは思えない力だった。ヴィダルの手ごと、ぐいぐいと小刀を引き、首を切り裂いた。
 そして、ヴィダルににっと笑いかけると、目を閉じた。



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