3.

 翌朝、起こしに来たニーナは寝台をうかがって、慌てて部屋を出て行こうとした。
 リオネルは彼女に声を掛けた。
「ニーナ。婚礼の準備は取りやめだ。そのように、皆に伝えよ。」
「は、はい……」
 彼女は振り向きもせず、小走りに退室した。
 彼はエレナに
「ニーナには刺激が強すぎたかな?」
と笑いかけた。
「嫌な男ね。相変わらず。」
 エレナは苦笑したが、リオネルがニーナに命じた意味を尋ね返した。
 彼は彼女を抱いていた腕を解くと、寝台から下りた。さっさと服を着ている。そっけない様子に、彼女は胸の底に不安がわだかまり始めた。
(私を抱いてがっかりしたから……? 結婚はしないつもり?)
 彼は彼女の表情を眺め、くすりと笑った。
「五日後の婚礼は無しだよ。」
 彼女はきょとんとしたままだ。
「婚礼は延期。……まあ、五日後にこだわらなくてもいい。しないわけではない。お前は心から望むまで待ちたいんだ。」
 彼女はほっと息をついたが、慌てて取り繕った。
「気長に待つことね。待っているうちに、おじいさんになってしまうだろうけれど!」
 彼は大笑いした。彼女は見破られたのではないかと、上気した。
「何よ!」
「いや。……海を……海を見に行かないか。約束した。忘れていたわけではない。今日は天気もいい。」
「覚えていたの? ちっとも誘わないから、忘れていたのかと思ったわ。」
「忘れるわけないだろう? どうする? 子供のように拗ねて、行かないと駄々をこねるのかな?」
 彼女は眉根を寄せ
「リオネルの想像通りのことはしないの。それに子供じゃない。行くわ。」
と答えた。
「そうなら、早く着替えて。すぐに出かけるんだ。朝の海は美しい。時が惜しい。」
 リオネルはエレナの腕を取ると、寝台から引き出した。

 二人は港に下りる階段の頂上で立ち止まり、海を眺めた。
 深い紺碧に輝いていた。朝陽を照り返した波が寄せる。いくらでも見ていられた。
「下りよう。船に乗せてやる。」
「船?」
 リオネルはエレナの手を引いて、階段を下りた。

 港には三隻の船が係留されていた。
 ひとつは座礁した船だ。大きな船はマラガまで航海するものだった。小さめの船は港のうちを行き来するものだ。
 エレナは大きな船の高い甲板から海を眺めてみたかったが、リオネルに止められた。
 船に女を乗せると、海の女神の悋気をかい、遭難すると言われているのだ。彼女は、水夫たちの験担ぎだと思ったが、リオネルも信じ込んでいるようだった。
「海では不思議なことがたくさん起こる。神の仕業としか思えないことがね。馬鹿馬鹿しいと思うだろうが、尊重しなくてはいけないよ。」
 小さな船は帆を張ると、ゆっくり沖に向かって走り出した。揺れはあまりなかったが、慣れないエレナは立っていることができず、手すりにすがった。
 海風に乱れる髪を抑え、波の立つ海を見下ろした。相当深いらしく、黒っぽい紺色をしていた。一瞬も留まることがなく、ゆらゆらと揺らめいている。
(海の色。海の底で生まれた鬼神の瞳の色……)
 塔で聞こえた言葉が蘇った。
“そこから飛べばよい。我が抱きとめてやる。”
 エレナは身震いし、手すりに額をつけた。くらくらと眩暈がした。その時、背中に手が触れるのを感じて、はっと顔を上げると
「どうした? 酔ったのか? 吐きそうか?」
と、リオネルが背中をさすりながら、心配そうに覗きこんでいた。
「ええ……」
 彼女自身に嘔気はなく、酔ったとも思えなかったが、リオネルは船酔いしたと判断し、船を止めさせた。
「昨晩、疲れさせたからかな?」
 彼女は、またからかわれたと思い
「いやらしい男ね!」
と彼の顔を見たが、本当に心配しているようだった。彼女は恥じ
「リオネルは平気なのね。船に慣れているから? 私も早くそうならなくてはね。」
と微笑みかけた。
 彼はにっこり笑って
「ああ。海も船も気に入ってくれたようで、嬉しいよ。それに……“お前”から格上げになったようだな。」
と言った。
 彼女は彼の胸を叩き、二人で笑い合った。
 リオネルは彼方を指さし
「あの先、あのずっと向こうにマラガがある。そのもっと向こうは大食の国々がある。そして、セリカの国。もっともっと先には、香辛料の故郷の暑い国があるそうだ。」
と言った。
「その先は?」
「わからない。でも、ひとの暮らす土地のはず。どんな風土だろう……? どんな者が住むのだろう……? 何があるのだろう……?」
「行きたい?」
 彼女が尋ねると、彼は
「そうだな。」
と目を細めた。
 瞳がきらきらと輝いていた。朝陽のせいだけではなかった。
(リオネルは……美しい。)
 彼が美しく見えるのは、容貌のせいではないと彼女は知った。彼女は彼の指さす海原を一緒に望んだ。
 しばらく黙って見つめたが
「帰ろう。冒険はおあずけだ。……王が呼んでいる。」
と彼が言った。少し残念そうだった。
「王?」
「そう。王子が生まれたそうだ。宮廷で祝いの宴がある。祝意を示さねばならないからね。お前も行くんだよ。」
 エレナは都への期待に胸が弾んだ。リオネルは苦笑した。
(気持ちが顔にすぐ出るのだね。)



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