2.

 ひとつの熱が放たれた。
 エレナは、リオネルの裸の胸に額をつけ
「あの塔……神が棲むって言った……。どんな神さま?」
と尋ねた。
 リオネルは、老いた従者の教えてくれた話を語って聞かせた。エレナは黙りこんで、難しい顔をした。彼は苦笑し
「何だか気味の悪い話だよな。でも、村の農婦が子供に話していたのは少し違うんだ。聞きたいか?」
と彼女の顔を覗きこんだ。
「ええ……」
 彼は彼女の髪を弄びながら、語り始めた。
「……レニエの沖の海の底で、独りきりの寂しい神さまが眠っていると、女のひとの泣いている声で目が覚めました。神さまは、お父さんに浜へ上がってはいけないと言われていました。しかし、あまりに悲しそうなので、こっそり浜辺に上がってみると、レニエの奥さまが赤ん坊が欲しいと泣いていました。神さまは美しい奥さまが好きになり、望み通り子を与えました。」
「神さまも恋をするの?」
「そうみたいだね。」
「“愛も知らぬ神”だなんて、さっき言ったくせに……。違うじゃないの。」
 エレナがきゅっと睨むと、リオネルは軽く笑って
「お前、俺の出まかせを信じたのか?」
と鼻を摘んだ。一頻り笑い合うと、彼女は先を促した。
「それから?」
「レニエの実城さまは、奥さまが悪いことをしたと思い……」
「悪いこと?」
「不貞のことだろ。子供に聞かせるのに、不貞などとあからさまに言えるか?」
「それもそうね。それで?」
「……奥さまは塔に閉じ込められました。赤ん坊が生まれる時も、実城さまはお許しになりませんでした。神さまは見るに見かねて塔に行くことにしました。」
「お父さんの言いつけに、また逆らったのね。」
「ああ。……浜辺に上がるとあまりに寒くて、神さまは青い炎の衣をまといました。赤ん坊は無事生まれましたが、神さまの衣の炎が奥さまと塔を焼いてしまいました。神さまは哀しみ、実城さまを呪いました。神さまのお父さんは、呪いの言葉を聞きつけると怒って、神さまを塔にそのまま閉じ込めてしまいました。神さまはずっと一人ぼっちで、辛い思い出の塔に棲んでいるのです。」
「神さまは望んで棲んでいるわけではないの?」
「さあ……。まあ、親の言うことを聞かないと、辛い目に遭うというおとぎ話だろう。」
「……本当にそんなことがあったのかしら?」
「まさか!」
 リオネルは笑い声を上げた。
 エレナは眉を寄せた。得心のいかない表情だった。
 彼は彼女の髪を梳き上げると、額に口づけた。彼女は、彼の右手を取ると、親指に嵌った指環を眺めた。印章のついた指環だった。
「これは?」
「カスティル=レニエの印璽。さっきの話の鬼神の姿だ。」
 彼は指環をかざして見せた。炎を吐く竜の意匠だった。禍々しい怪物を想像していた彼女には意外だった。

「さっき……塔の中で……リオネルは何か感じなかった?」
と話しかけた。
「何かって、何を? 神でも現れたか?」
 彼は軽く応じた。彼女は小さく
「たぶん……」
と呟いて、身震いをした。
 彼はまったく信じていない様子で、軽く笑った。彼女は戸惑った顔を上げた。
「リオネルは、本当に何も感じなかったの? 確かに何かいたのよ。」
「可笑しなことを。言い伝えだよ。伝説。俺は何度か塔に上がったことがあるけれど、いっさい存在を感じたことはない。どんな風に現れたのかな?」
「現れたんじゃないの。話しかけられたの。」
「何と話しかけられた?」
「“ユーリが好きなの?”って。最初はそれだった。」
 リオネルの表情が一瞬曇った。
「それで、お前は何と答えたのかな?」
「答えられなかったら、今度は“リオネルは?”って訊かれた。」
「それで?」
「わからないって答えた……」
 彼は期待していた分がっかりしたが、今のエレナにはその答えが順当なのだろうと納得した。
 彼の表情に気づかず、彼女は続けた。
「そうしたら、“我はどちらでもよい。リオネルでもユーリでも”って言ったの。ユーリがいいなら、逃げ出さなくてはならないとも言っていた。クルジェを出る時、ユーリが……」
 エレナの口からユーリの名前が出るのに、リオネルは我慢ができなくなった。彼女を振りほどき、寝台に押し付けると
「ユーリ? 森で戯れていただけではないか!」
と大声を出した。
 彼女は少したじろいだが、彼を強い視線で見て
「当たり前でしょ。私は結婚前に何かするような、ふしだらな女ではないわ!」
と言い放った。彼は彼女の手首を抑えたまま
「では、結婚前に俺とこんなことをしているお前は? これは、ふしだらではないのかな?」
とにっと笑った。
「それは……」
「まあ、いい。寝台の中で他の男の名前を口にしないことだな。覚えておけ。」
「……嫉妬したのね。」
「ああ。悪いか? あの坊やと違うってことさ。お前に手出しできなかったあいつとはね。」
 彼女は向こう気が起き
「確かに違うわね。ユーリは私を大切にしてくれただけよ。それも愛情だと思うわ。」
と言った。
「幼い恋だな。本物の男がどういうものか、お前に教えてやる。」
 彼は彼女の肌に唇を寄せた。
「他の男のことは言うな。二度と……。俺のことだけ想ってくれ。」
 彼の指や唇が触れたところから、次々にざわざわと快感があふれ出してくる。
「愛している、エレナ。……お前は?」
 彼の声色には苦しげな響きがあった。彼女はそのかすかな震えに気づくことはなく、その問いに答える巧い言葉もなかった。
 彼女は彼の腰を抱きしめ、脚を絡めて声を挙げた。



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