8.

 礼拝堂の扉が開いた。エレナは祭司に涙を見られないように、目許を拭った。
 彼女が立ちあがろうとしたところに、いきなり当て身を食らわされた。
 あっと思う間もなく気が遠くなり、彼女はそのまま男の腕に抱えられた。
(祭司さまじゃない……!)

 エレナは拘束され、土間に転ばされていた。気づいた彼女は、自分のいる場所を眺めまわした。
 小さな木造の小屋だ。樽や木箱が少し積まれ、縄や網が隅に置かれていた。閉じられた板戸の隙間から光が洩れていないことから、彼女は夜なのだと推測した。
 気を落ち着け、目を閉じた。すると、潮騒の音が聞こえてきた。潮の香りもする。
 海辺にいるのだと思った。
 手も足も、ぎっちりと縄が食い込んでいる。
 彼女は、少しでも縄が緩むのではないかと、手首を擦り合わせた。

 かたりと小屋の扉が開いた。
 数人の男たちが入ってきた。その後から女が一人。
(オクタヴィア……!)
 オクタヴィアは転がったエレナのすぐ前に立ち、見下ろした。憎々しげな目を向けている。
 エレナも睨んだ。口を閉ざされている分、凄まじい怒りが滲んでいた。
 オクタヴィアは微笑み
「初めまして、クルジェのエレナ。わたくしは、シビウの公爵の未亡人……いえ、再婚しましたから、どう名乗ったらいいのかしら?」
と言った。
 エレナの目はますます怒りに燃えた。
「殿さまはまだ無冠だから、カスティル=レニエの奥方としか名乗れないわ。でも、やがてマラガで高い称号を得る。それは、お前には関わり合いの無い話ね。……わたくし、ずっとお前を待っていたの。」
 オクタヴィアは楽しそうだ。
「リオネルとわたくしが仲睦まじいと、お前は自分の目で確かめなくてはわからないでしょう? そういう頑固な女だと思っていたわ。」
 彼女は、エレナの作った刺繍の布を取りだすと、蝋燭の火にかざした。火の移った布は容易く燃え落ちた。
「お前がシビウに入った時から、もう知っていたわ。お前の赤い髪は目立つからね。この粗末な布のことを聞いた時は、笑いが止まらなかった。刺繍など、下々の者はできないのよ。赤い髪の娘が刺繍を納めに来ただなんて……名乗って来ているようなものよ?」
 彼女は高笑いし、側の男にエレナの猿轡を解くように命じた。
 エレナは外されると同時に、大声を出した。
「恥知らず! 何がカスティル=レニエの奥方よ! その為に、シビウさまをどうにかしたんでしょう! 人殺し!」
「ああ! なんて酷い言葉! こんな女が、かりそめにでもリオネルの婚約者だったなんて……おぞましいわ!」
 オクタヴィアは笑いながら、手で耳を塞いでみせた。
「あんたの方がずっとおぞましいわよ! マラガの魔女!」
「その、マラガの魔法でリオネルを助けたんだから、感謝してほしいわ。」
「それは……そこだけは感謝しておくわ。でも、リオネルがあんたを選んだと、彼の口から聞くまでは信じないから! 連れてきなさいよ!」
「それはできないわ。」
「無理に結婚して、捕まえているからね。私と会わせたら、リオネルは……」
 オクタヴィアは、エレナの頬を踏みつけた。
「黙れ、無礼者!」
 エレナは踏まれながら、焼き殺すような目で睨んだ。オクタヴィアは
「……この女には消えてもらわねばならぬ……」
と低く呟いた。
「私も殺すのね。シビウさまみたいに!」
「人殺しの趣味はないの。」
 オクタヴィアは、エレナの口を再び閉ざすように命じた。
「お前はキャメロンの国から消えてもらうわ。この男に……」
 彼女は一人の男を指差した。商人のようだった。

 その男は、じろじろとエレナを上から下まで眺めまわした。腕組みして、思案している。
(この男に与えるつもり……?)
 すると、彼は
「まあ……美しい娘ではありますな。珍しい髪の色と、この深い緑色の瞳はいい。肌も抜けるように白い。気性はともかくとして……。大食かな? いや、こういうのは、草原向きかな……?」
と呟いた。
 オクタヴィアは苦笑し
「どこでも良い。遠くなら、どこでもね。」
と言った。
 エレナは、オクタヴィアと男を交互に見た。
「この男が、お前の主を見つけてくれるわ。お前は市で裸になって、男たちに品定めされて……。お前に一番の高値を付けた男が、お前の主よ。大丈夫。お前は美しいのだけは本当。きっと、いい客があるわ。大食の藩王かしら? 草原の族長かしら?」
(奴隷商人……)
 エレナが驚愕の表情を浮かべるのを、オクタヴィアは嗤った。
「主の望む時に、お慰めするのがお前の仕事よ。しっかりお仕えしたら、贅沢に暮らせるかもしれないわよ。ただ……飽きたら、次の男に下げ渡されるかもしれないわ。面白半分に、嬲り殺しにされるかもしれない。飽きられないようにね。」
 エレナはぞっとしたが、同時に怒りが頂点に達した。噛まされた布をぎりりと噛みしめ、唸り声を挙げた。
「ごきげんよう。クルジェのエレナ。」



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