7.

 祭司が礼拝堂を出て行った。エレナは祭壇の後ろにある小さな扉を開けた。思った通り、領主の家族が使う私用の通路だ。
 植栽の間の小道を辿ると、高い生垣に囲まれた庭園に出た。奥に領主の館が見える。左手に海が見えた。
(海……リオネルの好きな海。きっとレニエに続く海を眺めているのでしょうね……)
 海の見える眺望が、リオネルの心を支えているように思われた。
 彼女は生垣の特に空いた所を見つけ、手でそっとかき分けた。
 桃色の薔薇が咲き誇っていた。蜜蜂が飛び交っている。庭は、薔薇を眺めながら回遊できる造りのようだ。
 庭に視線をぐるりと巡らせると、四阿があった。そこに、黒い髪の男が座っている。彼女に背を向ける格好だが、リオネルに間違いない。
 彼女は息を詰めた。知らず知らずのうちに、ぎゅっと拳を握っていた。
 彼はじっと俯いたままだ。何をしているのか、よくよく眺めると、時々左腕が弧を描いて動く。本を読んでいるようだった。
 彼女は目が離せなかった。嬉し涙に目頭が熱くなった。名前を呼びたかった。
 彼に自分が来たことを知らせたい。彼女はすっと息を吸い込んだ。

「また、ここにいらしたの。」
 エレナはびくりとして、声を呑みこんだ。オクタヴィアが現れ、リオネルに微笑みかけている。
 しばらくの間があった。オクタヴィアに応えたリオネルの言葉に、エレナは驚愕した。
「やあ、奥さん。いい天気だね。海が美しい。」
(奥さん……!)
「あなたは海を眺めるのがお好きね。雨の日ですら、ここで海を眺めなさる。」
「ああ。見飽きないね。」
 仲睦まじい会話に聞こえた。
 エレナは踵を返し、その場を立ち去った。

 礼拝堂に、祭司はまだ戻っていなかった。エレナは祭壇の前に崩れ落ちた。祭壇の上に燭台が灯っていた。彼女の作った布がその下に敷かれている。見上げると、猪を連れた神の像があった。
“恋を叶える為に、神は己の剣を差し出した。”
 ひとに知れた神の物語を思い出すと、彼女は苦笑した。
(刺繍の下敷きひとつを差し出して……神さまはそこまで気前よくないということね……)
 彼女はすすり泣いた。

 オクタヴィアは、リオネルの本を取り上げた。
「本を読んでいるか、海を眺めているかね。私の執事が、あなたが一度も声をかけてくれないと嘆いていました。“殿さまは声を出せないのですか?”だなんて。」
 そう言って、彼女は笑った。リオネルは鼻を鳴らした。
「何が“殿さま”だ。御殿もない殿さまがいるか? 君の執事は皮肉屋だね。」
「執事は心配しているのよ。自分が不興をかっているのではないかとね。……あなた、御殿が欲しいの?」
「“御殿”はある。……レニエにね。」
「まだそんなことを……。それはダメ。それ以外なら、望むことは何でも叶えて差し上げるわ。」
「では、これをどうにかしてくれ。」
 彼は、足許に屈んだ。
 じゃらりと音が鳴った。彼は足首を結んだ重い鎖を持ち上げ、彼女を睨んだ。
 彼女は微笑みながら
「それもダメよ。あなたが何度もお逃げになろうとするから……。」
と言った。
「ダメなことが多いのだね。」
「申し上げたでしょう? わたくしと名実ともに夫婦になってくださったら、喜んで外しますわ。」
 彼はため息をついた。彼女は構わずに続ける。
「ねえ、リオネル。こんな国、嫌なことばかりのキャメロンなど忘れて、マラガに行きましょう? 父も待っているの。わたくしの城からも海が見えるわ。明るい陽射し。初夏には、オリーヴの可憐な花が咲いて……そうそう、葡萄畑もあるわ。」
「そこで、葡萄を摘めと?」
「ええ、お望みならね。」
「レニエと変わらないな……いや、レニエより気候が良さそうだね。」
「ええ! とてもいい所よ。あなたはすぐ馴染めるわ。わたくしは、あなたと同じ青い瞳の息子を抱いて……」
 彼は高笑いした。
「わかっているくせに……」
「ええ。きっと、あなたはいい夫になられるだろうとね。」
「青い瞳の息子など、君からは生まれない。絶対に。永遠に。彼を産むのはエレナだと決まっている。」
 オクタヴィアの頬が引き攣った。だが、それも一瞬だった。彼女は微笑み
「エレナは、あなたが死んだと思っているわ。もう忘れて、違う男に嫁ぐ準備をしている。新しいレニエの伯爵にね。」
と言った。
 レニエの相続のことは、リオネルは知らない。彼女は、彼が驚き、消沈するだろうと思い、やがてその事実に諦めるだろうと考えていた。
 しかし、彼は鼻で笑った。
「例え、そうだとしても、俺が君に靡くとは思わないで欲しいな。」
「……わたくしは諦めが悪いの。いつかも教えて差し上げたわ。覚えていて?」
「そうだね。邪魔な優しい旦那さまを殺すんだから。」
 リオネルは鋭い眼差しをオクタヴィアに向けた。
 彼女は軽く笑い声をたてた。
「あら、殺してなどいないわ。季節外れだというのに、大好きな牡蠣を我慢できなかったの。止めたのにねえ。」
「へえ。アハマドの仕事かと思っていたよ。君にとって、うまい具合に亡くなったからね。可哀想なシビウさま!」
「不謹慎な人ね。」
「俺もいつか殺されそうだね。」
「そんなこと、するものですか! こんなに愛しているのに……」
 彼女は甘えるように言って、彼の横に座り込んだ。
「離れてくれないか? 背がぞっとする。」
 彼女は構わずに彼の背中を摩った。
「……お風邪かしら? いけないわね。」
「そうかもしれないね。奥で休むよ。一人にしてくれ。」
 彼は彼女を振りほどき立ち上がると、一人で歩き去った。

 オクタヴィアは、リオネルの後姿を苦笑して見送った。彼がすっかり城館に消えると、立ち木の陰から二人の男が姿を現した。
 彼女の表情は先ほどと同じ女とは思えないほど、険しく厳しく変わった。
 彼女は男たちに
「捕えよ。」
と短く命じた。



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