6.

 エレナは、ヴィダルとシビウにいた。
 誰にも告げずにレニエを出たが、追手が向けられることはなかった。ヴィダルは何も言わないが、エレナは彼の今後を案じた。
 彼はレニエに戻っても、城に仕えることはできないだろうと思った。彼女が心配を口にすると、彼は少し難しい顔をして考え込んだ。
 しかし、彼はあっさりと
「いいですよ。俺はユーリさまの従者ではなく、リオネルさまにお仕えしているんだ。前も今もね。ユーリさまが嫌いだとか、認めていないとかいうわけじゃないですよ? 城でなくても、俺のいるところはレニエにいくらでもある。」
と言って、彼女に笑いかけた。
「これはね、俺にとっても大事なことなんだ。」
 そして、厳しい顔でそう付け加えた。

 豊かな土地だった。高台に城を構えていた。村は整った小麦畑を持ち、人々は数が多く、明るい表情で働いている。
 さすがに旅人は珍しいらしく、村では人目についた。二人は街道の宿に陣取り、そこを拠点にすることにした。
 シビウの公爵の壮麗な城。狩りをする森へ至る道。別邸だという小さな館。
 二人は、公爵の持っている土地を見て回り、何日か見張ることを続けた。
 城への人の出入りは頻繁にあったが、オクタヴィアが出かけることはなく、リオネルが出かけることはもっとない。
 だが、オクタヴィアは城にいることは間違いがなく、リオネルもそこにいるはずだ。
 領民ではない二人は堀の内には入れない。エレナは中に入る方策を考えた。

 エレナは歩きまわることは止め、宿で刺繍を始めた。小さな方形の布に、びっしりと細かく模様を縫った。出来上がったのは、燭台の下敷きだった。
 彼女はそれを持って、一人で城へ出かけた。そして、城の橋を警護している男に声を掛け、刺繍した布を見せ
「奥さまに差し上げて。」
と微笑んだ。
 衛士は、布の裏表をじっくりと観察した。
「色合いは地味だが、いい出来だな。」
 当座のところで何色も揃えられず、手に入りやすい赤と黒の糸だけで刺繍したのだ。だが、わざとそうした。
「ありがとう。もし叶うなら、礼拝堂に置いてほしいと思いながら作ったの。大神さまのお遣いと、神さまの魔法の炎のつもりよ。」
 彼女は図案化された黒い鳥の形を指差し、赤い炎の縁取りを示した。
「なるほどな……。奥さまは、こういった物はたくさんお持ちではあるが、邪魔になる物でもない。渡しておくよ。お前の願い通り、礼拝堂に飾っていただけるといいな。」
「ええ。お願いするわ。」
 衛士は布を懐にしまおうとした。彼女は
「ちょっと! くすねるつもりじゃないでしょうね!」
と怒った顔をしてみせた。
 彼は苦笑し
「盗ったりしないから、安心して行けよ。」
と言った。
「あんたのことを疑いたくはないけれど、自慢の出来なのよ。奥さまとは言わないまでも、お城の祭司さまに渡されるのを確かめたいわ。」
「面倒な娘だな……」
 彼は城の中へ入って行った。

 エレナはずっと堀端に立ち待った。
 陽が動いた。
 先程の衛士が老人を連れて出てきた。
「この娘ですよ。疑い深いんだ。」
「ああ。娘さん、心配しなくてもいい。確かに受け取ったからね。この男はくすねたりしていない。奥方さまもお喜びでいらしたよ。早速、礼拝堂に置くようにとお命じだったよ。」
 祭司はにこにこしてそう言うと、小籠に入ったパンを差し出した。
「奥方さまからのお礼だ。受け取りなさい。」
「ええ……」
 彼女は、考えていた通り、祭司に礼拝堂で祈らせてくれと懇願するつもりだった。気を落ち着け、言葉を発しようとしたところ、祭司が意外なことを言い出した。
「それから、奥方さまは、こんな立派な物をこしらえるのは、余程に信心深い娘だろうとおっしゃった。何か祈りたいと望むなら、礼拝堂に案内せよと仰せだ。」
 願ったり叶ったりだ。彼女は申し出に乗った。
「ありがたいことです。実は、辛いこと続きで。神さまのお恵みを得たいと望んでおりました。お城の礼拝堂ならば、きっと……」
「そうだね。高貴な方々の祈る礼拝堂は、より神さまのお耳に近いものだ。必ず、癒しを与えていただけるだろうよ。」
 祭司は満足そうに頷いていた。
 彼女は彼の誘う通り、城内へ足を踏み入れた。

 二人は、城の大手門から、どんどん階段を上った。礼拝堂は頂にあった。見下ろすと、海が見えた。
 そして、礼拝堂を抱えるように、背後に城館が建てられていた。
(そこに……リオネルがいるの……? )
 そう思うと、胸が高鳴ったが、共にオクタヴィアも生活していると思うと、重い気持ちが圧し掛かってきた。
(一目でも見たいと、生きている姿を確かめたいと思ったけれど……)
 その後に、取り返す方法があるのかと自問すれば、何もない。
 オクタヴィアを説得しても、リオネルを返してくれるとは思えない。
(リオネルは、私が生きていると知っているとは思っていない。もし、そうだと知ったら……?)
「娘さん?」
 祭司の言葉に、エレナは物思いから覚めた。
「その燭台の下に、あなたの刺繍が敷いてあるよ。」
「ええ、本当に!」
「お祈りをするかね?」
「ええ。」
 彼女は祭壇の前に跪いた。じっと身動きもせず、祈る風を続けた。
「長いね。」
「こんな機会はないもの。ゆっくり祈りたいの。」
「そうか……」
 祭司は、ちらちらと戸外に視線を向けていた。
「私は……そら、時刻を告げねばならんのだよ……」
(ええ、わかっているわ……)
 彼女はほくそえんだ。そして、いかにも純朴そうな風情を装い
「ごめんなさい、祭司さま。気がつかなくて……。でも、私を気になさらないで。鐘突きのところへ行くといいわ。」
と言った。



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