5.

 王城は、珍しい客を迎えていた。
 キャメロンの王国一番の旧家の主である。
 古代、この辺りには、キャメロンを始め、ラドセイス、マラガをも含む広大な帝国があった。その帝国が衰退し、分裂、滅亡する過程で、いくつかの国に分かれたが、その家は帝国の地方総督を祖とする古い家系だった。キャメロンの王家とは比べるまでもない。
 当時の監督地方をそのまま領地としており、今はキャメロンの王国の一角と見なされていたが、実際はほぼ独立した様相を持っていた。王家に対しての義務もなく、王家の介入もない。
 所謂、制外の家である。
 ラタキヤの侯と呼ばれ、皆の崇敬を集めていた。

 午後の柔らかな日差しの射す王の居間。豊かな銀髪と見事な髭を蓄えた老人が、ゆったりと椅子にかけ、王を待っていた。
 小姓があれこれともてなそうとしたが、彼は鷹揚な仕草で断る。微笑んでいるが、濃い銀色の眉の下の目は笑っていなかった。
 彼は庭を眺めながら、王を待った。ずいぶんと待たされていた。
 ようやく扉が開けられ、小姓の先ぶれの後に王が入ってきた。
「侯。久しくお会いしておりませんでした。長の無沙汰をお詫び申し上げます。」
 王は、侯の突然の訪問の意味が解せなかった。訝しい思いばかりだったが、努めてにこやかに挨拶した。
 侯は座ったままだった。微笑みを崩さず、王を見
「王。お健やかであるようですな。寿ぎ申す。」
と応えた。同等か目上であるかのような態度だった。
 侯の立場を想えば、理解できる態度であるが、王は少々不快の念を持った。
 二人は張りついた笑顔のまま、ぎこちない会話を始めた。
 王には、侯の意図が一向につかめない。
(何のつもりだ……?)
 侯は庭園に目を移すと
「最近、我が一族のことばかりが気になる。年寄りになった所為でしょうなあ。要らぬことばかりが浮かび、気になってしかたがない。」
と言って、ため息をついた。
「侯のご一族はこれからも安泰でしょう。ご子息も立派にご成長なさって……」
 王の言葉を侯は遮った。
「我が息子は、問題なくラタキヤを采配する。そうではないのだ。かつて、自分がしたことについてね……。正しいと信じてやったことだが、果たしてそうだったのか、どうもこうも疑念が消えぬ。」
「人は皆、そのように思うものでしょうよ。」
 王が理解を示す言葉を返すと、侯の瞳が鋭く光った。

「かつて……私は、叔父の遺児を保護していた。美しい従妹、アンガラード姫(モナト・アンガラード)。まことに麗しい姫であったよ。」
 侯は夢見るような表情だった。モナト……“高貴な姫”という意味の古い称号をつけて呼ぶことが、矜持を感じさせた。
 王は、アンガラードがリオネルの母親だと、もちろん知っている。
(困った話になるようだぞ……)
 王は黙って侯を見つめた。
「私は彼女に教育を授けた。いかなる国の名家にも勝る、我が一族の女人に相応しい気概と振舞いを身につけさせた。気高く誇り高く。彼女は私の期待に見事に応えた。比類なき名花として、花開いた。」
 侯は大げさな身振りで語ると、王をちらりと見た。自慢げに微笑んでいたが、ぞっとするような冷たい目だった。
「ええ……」
「私は、モナト・アンガラードを嫁がせるに当たって、キャメロンの貴族を一人一人精査した。人品卑しからぬ初婚の男、我が一族には及ばなくとも、由緒ある家系の当主。」
 王はこっそり舌打ちした。
「カスティル=レニエのサーシャは、申し分のない男だった。地方の伯爵に過ぎないのは、不満であったがな。……ほどなく儲けたリオネルもそうだった。」
 王にとって、リオネルのことは同意するわけにはいかない。黙って先を促した。
「それがだ!」
 侯は大声を出した。王は
「リオネルはラドセイスと通じたのです。」
と応じた。
「そのようなことを申しているのではない!」
 侯の怒声が響き渡った。
「では、何が?」
「リオネルのことは、キャメロンの王たるあなたの采配を重んじよう。彼は、あなたの臣下なのだから。……だが、その後のことだ。」
 侯はほっと息をつき、王に厳しい目を向けた。
「モナト・アンガラードは自ら命を絶った。」
「それは……」
「あなたは、レニエの主に卑しい女の息子を据えたそうだね。」
「レニエは特殊な土地。カスティル=レニエの血を引く者しか受け入れません。庶出の当主を持つ門地はいくらでもある。珍しいことではないでしょう。」
「私は、キャメロンの王国の采配を重んじると申した。だが、モナト・アンガラードに対する敬意は忘れてはいけなかったな。私は彼女に、卑しき者に腰を折ることは教えておらぬ。むしろ、腰を折るなと教えた。それが……庶子を伯爵に迎えねばならんなどと……何というおぞましい辱めだろう!」
 侯は涙目で言葉を切った。そして
「卑しい者を宛がうなど、国体に対する侮辱でもある。」
と言って、王を睨んだ。
「他にしようがありませんでしたから。“モナト・アンガラード”には最大限のお悔やみを申し上げましょう。私の名において、王国中の寺院が、彼女の慰霊をすることでしょう。」
 王は侯をじっと見つめた。

 しばらくあって、侯は立ち上がり
「そうか。そのように。彼女の幸せが、私のかつての行いを正しいと断ずるのだ。……久方ぶりにラタキヤを出て、楽しかったよ。道中の見物も物珍しく、興が惹かれた。帰りも楽しみだ。」
と微笑んだ。
 王は安堵した。年寄りの繰りごとを聞くだけで済んだのだ。侯に近寄り
「それは喜ばしいことです。お帰りもよき旅になるように。」
と声を掛けた。
「うん。」
 その時、侯が左手に持っていた手袋が足許に落ちた。落ちたというより、落としたようだった。不自然に王の足許寄りに落ちたのだ。
「手袋が……拾ってはくれんのか?」
 侯がにっと笑った。
 手袋を相手の足許に投げ落とすのは、挑戦の意思だ。それを拾うのは挑戦を受けるという証だった。
 王は躊躇した。侯がそのつもりなのか、そうではないのか。侯の表情は判りにくい。
 侯は独りごとのように
「腰を折るのがな……」
と言った。
“卑しき者に腰を折るな。”
 先程の侯の言葉が思い浮かんだ。
(王家を卑しんでいるのか?)
 王は侯を見つめたまま、ゆっくりと屈んで手袋を拾い上げた。
 そして、微笑を浮かべたままの侯に、黙って差し出した。
「ありがとう。……年寄りになると、腰を折るのが大儀なのだよ。あなたも私くらいになると気持ちがわかるだろう。何事もね……年寄りにならねば、わからないことがあるのだ。」
「さようですか。」
 しかし、侯は手袋を受け取らず
「それは差し上げるよ。子鹿の皮で作られた良い品物なのだ。今日の記念に、お納めあれ。」
と言って、出て行った。
 程なく、廊下から侯の高笑いが聞こえた。

 侯は敵対するつもりなのだろうかと、王は案じたが、それは大仰な懸念だとすぐに否定した。
 しかし、キャメロンの王国とは距離を取るつもりなのかもしれない。王国の財政や軍事にたちまちに影響することはないが、皆の尊ぶ権威ある一門から遠ざけられるのは好ましいことではない。
 王は疲れ、侯の座っていた椅子に倒れ込んだ。
(侯も、諸侯も……人心が離れていくようだ。……私のやり方が強引なのだろうか……?)
 彼の心中に迷いが生じた。母后の言っていたことが思い出され、次第に心の真ん中を占めていった。



  Copyright(C)  2016 緒方晶. All rights reserved.