3.

 エレナには嬉しいことに、別れたニーナやヴィダルと再会ができた。彼女が望むと、ユーリはニーナを側に置くことを許した。礼を言うと、彼は
「エレナが喜ぶことなら、何でもするさ。」
と言って、心から嬉しそうな顔をした。
 ニーナは
「ユーリさま、どうなることかと思ったけれど、優しい方でよかった。私、ほっとしています。」
と微笑んだ。
 ヴィダルも概ね同じだった。
 しかし、それは皆の共通する想いではないと、すぐに知れた。慇懃だが、探るような視線をユーリに向け、身分に相応しい所作ができないことを陰で嗤った。

 数日後、エレナの歓迎の食卓があった。
 レニエの伯爵に従う騎士たちも招かれていた。豪勢な食卓だった。
 まずは、何か皆を労う言葉なり、集まってくれたことへの感謝なりを伝えねばならない。
 ユーリは
「集まってくれてありがとう。」
とだけ言って、言葉に詰まった。隣のエレナに困った目を向けた。彼女が
「皆に助けてくれるように言って。最後は、食事を楽しんでほしいって結ぶのよ。」
と耳打ちすると、その通りのことを言った。
 重々しい言葉を使うべきだったが、普通の話し言葉だった。そして、早々と座った。
 皆はこっそり目配せした。
 献酌が現れ、厨房の頭が料理を運び込んだ。
 花弁を浮かべた水盤が捧げられると、ユーリは不思議そうな顔をして、エレナを見た。
「手を洗うの。そして、彼の腕に掛っている布で手を拭く。」
 彼は言われた通りしたが、水盤を持った小姓にはすっかり聞かれてしまった。小姓は眉をひそめて見た。
「ユーリ、私のするのを見て、同じようにするのよ。」
 エレナはまた耳打ちした。
 しかし、上手くはいかなかった。
 彼は彼女と同じ匙を使おうとし、かじったパンを汁ものの鉢に浸そうとする。皿の上の敷きパンを食べようと取り上げるのを、彼女に制止され、慌てて戻して指先を汚した。彼は卓の亜麻布で指を拭った。
 数々の不調法に気づく者も増えた。ユーリの手元を皆が見つめる始末だ。
 ユーリも気づいて、目許を赤くした。小刀を握った手が震えていた。
 向こう隣りの老騎士が、見かねて
「畏れながら……それは、背に指を当てて握る物ではありません……」
と囁いた。
「え……?」
「小刀ですよ。それでは、皮細工をするようです。食事の時は、軽く握って使うのです。」
 ユーリは言われた通りの握り方をした。
「こう?」
「さよう。……それから、指が汚れたら水盤で漱ぐのです。……水盤には静かに手を入れなくてはなりません。塩を掬う時は、小刀の刃を軽く拭って、刃先で静かに掬いあげて、敷きパンに載せる。……敷きパンを食べないのは、後で貧しい者に喜捨する為です。」
「そうなんだ。何だか、食べた気にならないなあ……。でも、ありがとう。俺は百姓の飯の食い方しか知らないし、困っていたんだ。わけがわかんねえし……。騎士さまみたいにわけを言ってくると、ありがたいよ。」
 ユーリはそう言って、にっこり笑いかけた。老騎士は目を丸くした。やがて、彼は笑い出し
「なるほどね! 皆、あなたが突然その席に座らされたことは知っている。ぎこちない手つきだから、見るのです。知らんことは訊けばいい。遠慮なさらずにね。」
と片目を瞑ってみせた。
「ああ。言う通りだ。」
 ユーリが照れくさそうに笑うと、老騎士は
「皆! 伯爵さまは、まだお暮らしに慣れておらん。一刻も早く慣れていただけるように、我々で努めようではないか!」
と広間に呼ばわった。
 皆、卓を叩き、歓声を挙げた。
 ユーリとエレナはホッと息をついた。

 しかし、老騎士の提案の後も、さして目に見える変化はなかった。
 ユーリは丁重な扱いをされたが、実際は城に閉じ込められている状態だ。城の者は、この間まで農夫であった彼に期待することもなく、どう扱っていいものかもわからなかったのだ。
 ユーリも同じで、何をしていいのかわからず、何も求められず、無為に城で寝起きしているだけだった。
 ユーリは彼女の許を訪れては
「クルジェに帰りてえ。」
と寂しそうにした。
 最初の日に、啖呵をきった人物とは同じに思えないと、エレナは苦笑した。
(私とはひとつ年上のくせに……クルジェにいた時と変わらない。弟みたい。)
「今頃、俺の大麦畑はどうなっているのかな? 隣の親父さんが面倒を見てくれているのかな? もう、クルジェで畑仕事をすることはないんだろうなあ。」
 ユーリがため息をつくと、ニーナが
「クルジェとは違うでしょうけど、レニエの畑をごらんになってはどうかしら?」
と勧めた。
 ユーリは気乗りしない様子で、ニーナをじろりと見た。彼女はエレナに向かって
「ねえ、エレナさま。いいと思いませんか? 葡萄畑の仕事をごらんになって、ご興味があるなら、教わったらいいですよ。」
と言った。
「ああ、そうね! 私もレニエに来た時……」
 エレナは途中で口をつぐんだ。ニーナもしゅんと俯いた。
「何だ、二人とも? いい考えだと思ったけど、ダメなの? エレナがレニエに来た時、どうしたの?」
「……葡萄畑に出て、葡萄の摘み方を教わったわ。」
「へえ! エレナがねえ……」
 ユーリは愉快そうに笑ったが、急に笑うのを止めた。
「そう。レニエでは伯爵も葡萄を摘むんだ……」
 冷たい青い目が窓の外に据えられた。エレナが見つめているのに気づくと、微笑んで
「じゃあ、俺も覚えなくてはね。」
と言ったが、瞳の奥には、ほの暗い怒りが揺らめいていた。



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