10.

 その後、船の長がエレナに手を出すことはなかった。しかし、彼女の身の回りの世話は、長が全て行った。
 彼女は縛られたままの手で、手づかみで食事をさせられた。汚れた口許と手は、彼が拭った。
 用を足すのすら、手助けする。
 気味が悪いほど、丁寧だった。
 だが、彼女に情が湧いたからではない。商品だからそうするだけだと、態度が語っていた。
 彼女は苦々しい思いで、大人しく従った。

 何度目かの食事の際、エレナはそれまで無言で食事をしていたが、長に初めて話しかけた。
「お願いがあるの。」
 すぐさま、無情な応えが返ってきた。
「聞けないな。」
 彼女は諦めずに訴えた。
「書きものがしたい。」
「何を書くんだ?」
「故郷の両親に書き遺したいの。」
 彼は嗤った。
「親に届くと思うか?」
「それはどうだか知らないけれど。……届かないでしょうね。でも、書くだけ書いたら、気持ちが落ち着いて、諦めもつくわ。」
 彼女は両親のことを思い出し、切なさに落涙した。
「辛気くせえ!」
 彼は顔をしかめ、食器を持って出て行った。エレナはため息をついた。
 それでも、食事のたびに訴えかけた。毎回、拒否されたが、根気よく続けた。

 数日後、長が
「マラガが見えてきた。」
と言った。いつもの無表情だったが、微かに嬉しそうな色があった。
「程なく、港に入るということね。」
「ああ。だが、ノアトゥンの柱のてっぺんが見えてきただけだ。もう一晩はかかる。」
「ノアトゥンの柱?」
「マラガの千の島々の最初の島さ。岬にそそり立った岩をそう呼ぶんだ。」
「そう……」
 エレナは俯き、黙り込んだ。黙々と食事をしていると、彼がぽつりと言った。
「諦めろって。着いたら、すぐ市にかけるからな。」
「ええ……」
 いつも通り、彼は食器をまとめ立ち去ろうとしたが、戸口で立ち止まり考え込んだ。
 彼女は怪訝な目を向けた。彼はちらりと彼女に振り向き、そのまま出て行った。
 すると、戸外から船員に命じる大声が聞こえた。
「おい! 女が書きものをしたいと言っている。紙と灯りを入れてやれ。」
 彼女は目を輝かせ、低く笑った。
(冷酷な奴隷商人のくせに……)

 船員が命じられた品をすぐに持って来た。床に筆記用具を置き、少し考えて
「右利きか?」
と尋ねた。
 彼女が頷くと、左手を寝台に括りつけた。こんな時も縄を解かないのが忌々しい。
 彼は、蝋燭を離れた床に置いた。
 彼女は這いつくばり、紙に向かった。男はそれを見下ろしている。
 彼女は書くのを止め、手ぶりで去るように促した。彼は躊躇していた。彼女は切なげに彼を見つめ、紙に
“見られていると書きづらい。少しだけ、向こうに行っていて。”
と書いて、示した。
 男は思案顔だった。だが、じろりと彼女を見て、そっと出て行った。錠が掛かり、立ち去る足音が聞こえた。

 エレナは長く息をついた。時が惜しい。左手の縄を解こうとしたが、複雑な結え方で固かった。
 彼女は早々に諦め、床にべったりと身を伏せると、蝋燭に腕を伸ばした。届かない。
 彼女は、与えられた紙を巻いて長く伸ばし、蝋燭の炎に近付けた。紙の先がぶるぶる震えた。限界まで伸ばされた腕も震え出し、あっと思った瞬間に指先から紙が落ちた。
 紙は蝋燭を倒した。火が紙に移った。
 彼女はまた腕を伸ばし、紙の端を指先でどうにか摘んだ。
 左手の縛めを焼き、足首の縄も焼き切った。
 彼女は倒れた蝋燭を取り上げ、炎をじっと睨んだ。
(もうマラガに着いてしまうのよ? やらなくては……)
 髪を掻き上げ、目を閉じ、奥歯を喰いしばった。考えていたことを実行するのに、恐れがあった。
(私は……私は絶対に負けない。死んでも、言いなりになどなるもんですか!)
 彼女は決心をつけ、寝台の足許にしゃがむと、包布の端に火をつけた。
 火がゆっくりと包布を伝っていく。寝台の敷き藁を燃やし始め、煙が立ち上った。
 彼女は、寝台の上に蝋燭を放り投げた。上掛けを持ち上げ、何度か煽ると炎が上がった。
 そうして、充分に火のついた寝具を部屋の中に散らし、燃え広がる中に立った。
 彼女の服の裾に火が上ろうとする。彼女は裾を払った。
 やがて、炎が壁を舐め始めた。長くなり、壁を伝い天井へ伸びて行く。
(炎の竜……何頭も何頭も上って行け! )
 炎は彼女にも襲いかかった。煙と熱気に咽かえりながら、炎を避け、扉をどんどん叩いた。

 部屋の扉が蹴り開けられた。怒声と共に、船員が駆けこんできた。炎は風を孕み、更に燃え上がった。驚き、慌てふためいている。
 エレナは部屋を飛び出した。船員たちは彼女に目もくれない。
 振り返ると、炎が天井を突き抜け、螺旋を描いて夜空に立ちあがっていた。
 悲鳴と怒号。
 彼女は立ちつくし、炎が闇を焼くのを見つめた。足許を風に乗った熱い煙がさらっていく。
 炎は生き物のように揺らめき、吼える。人の制御を拒み、嘲笑っている。
 彼女は海を見下ろした。炎を映し赤く照っていたが、すぐ先には真っ黒な波が蠢いている。
(炎と海は似ている……)
“青い炎の衣をまとった、海の底で生まれた竜の姿の鬼神”の姿が、目の前にあるように思われた。
 彼女はぽつりとそれに問いかけた。
「ねえ。海はあなたの版図なのでしょう? この海もレニエに続いている。私を助けて。」
 炎は咆哮し、嗤いながら天に昇って行く。
「そうね。あなたは、お父さんにレニエの塔に閉じ込められたきりだったわ。ここを見ることはできても……見ているしかできないのね。」
 彼女は軽く笑い、咳き込んだ。
 眼下に、波が船体を洗っているのが見える。波頭が金色に照っていた。
「私、生きてやる! ……リオネルに会うまで生き抜いてやるわ。」

 貪欲な炎は船を呑み込み、夜空を焼き続けた。



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