3.

 リオネルは食器を廊下に出し、寝台に向かった。エレナは毛布を掻き合わせたまま、部屋の真ん中に立ち、彼のすることを眺めていた。
 彼はちらりと彼女を見たが、黙って寝台の脇で長靴を脱いだ。
 彼女は息を飲んだ。
「どうした?」
 訝しげに振り向いた彼に、彼女は目を見張ったまま指を挙げた。
「……その足……」
 彼は指さされた足首を一瞥した。長い間鎖で繋がれていた足首は、その形に茶色く変色していた。彼は苦笑し
「これか。鎖で縛られていたんだ。」
と答えた。
 すぐさま、彼女は鋭く問いかけた。
「何故?」
「逃げるからだよ。ずっと足首を繋いだまま生活させられていた。」
 彼女の眦が上がった。身を抱きしめて、ぶるりとひとつ震えた。
「酷い……!」
 そう言ったものの、すぐに彼女の顔から怒りが消えた。ちらちらと視線が揺れ、やがて途方に暮れた目をして彼を見つめた。
「私……彼女を……」
 彼女が言い終わる前に、彼は
「彼女をああしたのは俺だ。」
と言った。
「でも、私が刺した。」
「いや。お前は身を守っただけだ。」
「そうだけれど……」
「彼女に刺された方がよかったか? 自分が死ねばよかったとでも言うのか?」
 彼女は答えられず、ぽろりと涙を落した。
 彼は歩み寄り、柔らかく肩を抱きしめると、寝台に座るように促した。
「お前が傷つけられていたら、俺が刺しただろう。どちらにしても……彼女はそうなっていたということだ。」
 彼女はやはり答えがなく、ただすすり泣いた。
「正しいことではないかもしれないが、誰も……少なくとも俺は責めないよ。」
 気が治まったわけでも、納得したわけでもなかったが、彼女は小さく頷いた。
 彼は彼女の短くなった髪に手を伸ばした。少し躊躇ったが、髪を撫でると、彼女がびくりと震えた。
 彼女は彼を見上げた。みるみる涙が溢れ出し、彼女は彼の胸で滂沱の涙にくれた。

 エレナの涙が落ち着くと、リオネルは
「ところで……俺が生きていることはどうやって知った? マラガまでどうやって? 言いたくなければ、そう言ってくれ。聞かない。」
と尋ねた。
 彼女はじっと彼を見つめた。彼に聞かせにくい話だ。思えば、凄まじいことをしてきた。彼の知っている彼女とは、まったく違う身になってしまったことを恥じ、悔いた。
 彼は彼女が固い表情で考え込むのを見つめた。
「いいよ。無理を強いるつもりはない。」
 彼はそう言うと、寝台に横たわった。突き放した言い方ではなかった。彼女は言わなくて済むのだと安堵する気持ちになりかけたが、そうして後ろめたい気持ちを抱えるのは嫌だった。
「いいえ。話すわ。リオネルに隠し事はしない。」
 彼女はきっぱり宣言し、彼の問いに答え始めた。

 リオネルは寝台に寝ころんだまま、黙って話を聞いた。
 ヴィダルが情報をつかんだことを聞いて、彼は満足そうに微笑んだが、傷を負ったことを聞くと、長い溜息をついた。
 しかし、何も言うことはなく、エレナに続きを促した。
 シビウでのこと、マラガの商人に売られたこと。彼はそれらを静かに聞いた。
 彼女は惑ったが、辱めを受けたことを事実のみ伝えると、彼はぎらりと瞳を光らせた。彼女は、何か言うのだろうかと話を切ったが、彼は特に何も言わず
「うん。」
と話の先を要求した。
「それで……翌日にはマラガの港に着くと聞いて、私は船に火を放ったの。」
 それを聞いて、彼はがばっと起き上がり、目を見開いて彼女を見つめた。
 彼女は驚き、すぐさま悔やんだ。
(船……リオネルが大切にしていた船。誰の船だとしても、焼いたのは許せないのかしら……?)
 彼女は彼の視線から目を逸らした。
 彼は考え込んでいたが、溜息をついて横たわった。
「……俺がお前と同じ立場だったなら、同じことをしたかもしれない……」
 小さな呟きだった。
「……リオネルは、シビウの城やキラナの城を焼いて、逃げようとはしなかったじゃない?」
 その言葉は、彼女の意図するところとは違った感慨を彼に与えた。
(俺は……そうまでする強い意志がなかった……)
 彼は苦い思いを噛みしめた。
 
 エレナは顔を歪め、リオネルを見つめて、話を続けた。
「あの船……船に乗っていた人たちは、どうなったかしら……? 船乗りたちもだけれど、私と同じように売られた女たちは、死んでしまったのでしょうね……」
「他の女も乗っていたのか? お前は船室に一人で閉じ込められていたのだろう?」
「船倉に押し込められていたんじゃないかしら。」
「シビウの港で乗せられたのは、お前だけだろう?」
「それはどうだかわからないわ。私が乗せられる時に、他の女はいなかっただけ。別な時間や他の港で乗せられた人がいたかもしれない。」
 彼は苦笑した。彼女は眉を顰め、彼に問いかけるような目を向けた。
「……お前、飢饉があったとか戦乱があったとか、あのころに聞いたことがあったか?」
「……いいえ。それが?」
「奴隷というのは、そういう時に供給が出るんだよ。」
「では、あの奴隷商人は?」
「奴隷商人などではない。仕入れる商品がないのに、遠くまで航海する商人がいるか? 普通の商売で、シビウに来たか、何処かからマラガに戻る途中に寄港した商人の一人だろう。オクタヴィアは、何でも扱いそうな胡散臭い商人を選んで、お前を預けただけだろうよ。」
「そうかしら……?」
「そうだよ。」
 彼にきっぱり断言されても、彼女の気持ちはすっかりとは晴れなかった。
 考え込んでいる彼女に、彼は
「それについて、あれこれ考える必要が今あるのか? また、あれこれ考えても、実際のところはわからない。いたかもしれないし、いなかったのかもしれない。俺はいなかったと思うがね。お前がいたのだと思うのなら、状況が許すようになってから、彼女らを悼み、慰霊をしろ。だが、今はその時期ではない。」
と諭した。
 彼女は悄然と目を伏せた。
 やがて、彼女は顔を挙げ
「そうするわ。」
と言った。彼をじっと見つめる視線は強かった。そして、低く
「レニエでね……!」
と言った。
 彼は満足げに微笑んだ。
「ああ。それがいい。俺が立派な御堂を建ててやるよ。」




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