2.

 やがて、大きな街道に出た。行き交う人の数が増えた。そこはまだマラガの国の内だったが、周りの風景は完全に草原へと変わっていた。
 村々には小さな宿がある様子だった。
(タイランはうまくやっているのだろうか? オクタヴィアのことが、先に王弟に伝わったら……、王がタイランを信じなければ……? 追手……)
 リオネルは、小さな宿で記憶に残ることを恐れた。
「もっと大きな街で泊まろう。」
 エレナは彼の言わんとするところを理解して、ただ頷いた。
 二人は、小さな宿屋に客が出入りするのを横目に眺めながら、街道を辿った。休息への誘惑に、疲れのたまり始めた身体が負けそうだったが、張り詰めた心がかろうじてそれを退けた。

 数日後の夜更け。ようやく望ましい大きな宿場街に入った。既に客引きの盛りの時間は過ぎていたが、空きがあるらしく、いくつかの宿の前に客引きが佇んでいた。
 リオネルは、小ぎれいな商人宿の二階に部屋を取った。そして、行水の湯を頼むと、エレナに使うように言って出て行った。
 エレナは閂をぎっちりと下して、湯を使った。
 長い間、貧民として過ごし、湯でゆっくり身体を洗うことなど叶わなかった。喜々として身体を洗い始めた彼女だったが、すぐに手を止めて俯いた。
 点々と散った赤い痕。滑らかな白い肌は見る影もない。水面に映った顔にもそれはある。
 彼女は顔を歪め、髪を湯に浸した。指に絡む髪は頼りなかった。滝のように流れる豊かで長い赤い髪はもうない。
 彼女は唇を噛みしめ涙を堪えながら、身体を洗った。
 着ていた牧童の服は汚れていた。どうしてこんなものを着ていられたのかと眉を顰め、服を洗い、身体には寝台の毛布を巻き付けた。
 一連の作業が終わってもリオネルは戻ってこない。彼女は不安を覚え、窓の板戸を細く開けて、戸外をうかがった。
 窓は中庭に面していた。一階部の食堂はまだ騒がしいが、中庭は静まり返っている。厨房の裏に当たるのだろう、一隅に屋根のかかった井戸があった。
 そこに裸の男がひとりいた。跪いている。身体を洗っているようだった。よくよく見れば、リオネルだった。
 エレナは苦笑した。
(レニエの伯爵さまが、庭の片隅で水を……)
 可笑しかったが、湯を彼女に提供する為なのだと思うと、切なかった。

 ほどなく、リオネルが荷物を抱えて戻ってきた。
「庭で水浴びをしているのを見たわ。……ごめんなさい。」
 エレナがぽつりと言うと、彼はにやりと笑った。
「苦労はひとを謙虚にするらしいな。お前が開口一番に“ごめんなさい”と言うなど、以前には考えもよらないことだった。」
 彼女は昂然と顔を挙げ、彼の胸に指を突き付けた。
「ええ、そういうものよ! ひとは日々成長するもの。けれど、レニエの伯爵さまはそうではないらしいわね!」
 彼は嬉しそうに両手を挙げ
「降参するよ。ひとは成長するものだが、俺のエレナの根っこは少しも変わっていなかった。勇ましい女戦士。」
と言った。
 彼女は鼻を鳴らして、彼から一歩下がった。彼はその様子を微笑みながら眺めた。
「ま、“俺のエレナ”と呼んでも、抗議しなくなったのは、一番望ましい成長だね。」
 そんな皮肉に彼女が言い返す前に、彼は荷を開いて見せた。
「服を一揃え。誂えの上等な衣装とは言えないが、あちこちきつい牧童の服を着て、怪しい従者のふりはしなくてよくなる。」
 彼は寝台の上に、服を広げた。くすんだ色の女物と髪を覆う布、少々くたびれた靴が並んだ。
「それから、食事を部屋に頼んだ。下の食堂へは行かなくていい。食事というほどのものではないがね。」
「ええ。」
 やがて食事がきた。汁物とパンだけの簡単なものだったが、エレナは貪った。リオネルはその様子を楽しそうに眺めた。
 彼は一向に手をつけない。彼女はいぶかしく思い
「リオネルは? 食べないの?」
と手を止めた。
「俺は下で食べた。……お前と同じような物しか食べていないよ? 俺だけ贅沢したわけではない。」
「そんなこと言っていないでしょう! ……私が一緒では、やはり……?」
「そりゃあね、目につくだろう。極力印象に残らないようにしなければね。」
「そうね……」
 彼女はその理屈に納得はしたが、彼が醜い女と共にいるのを見られたくないと思っているのではないかという疑問は残った。
「どうした? 手が止まったままだが?」
「ああ、そうね。何でもないの。」
 彼女は取り繕い、笑顔を作って見せた。彼は笑い出した。
「つまらないことを考えたんだろう? 自分を戦線から除け者にしたと思ったんだろう?」
「そんなこと、思うもんですか!」
「まあ、いい。食堂でいろいろ聞いてきた。」
 彼女はかつて盛り場で、同じように情報を得ていたことを思い出した。そして、そこでの情報にはかなり正確なことも含まれていることも知っている。

 リオネルが得た話では、この宿場街はマラガでの最後の宿場街だった。この先は、国境の関が小さな街を呈しているだけだという。
「関を出れば大平原。放牧の民の村がいくつかあるだけで、駆け通しで行けば、翌日にはラザックシュタールが見えてくるそうだよ。」
 彼は簡単に言うが、エレナには不安があった。
「関……何事もなく通れるのかしら?」
「商人たちの話に不穏なものはなかった。例の件……あれで、関の誰何が厳しくなった話はしていなかった。」
「そう……」
 彼女の表情は晴れない。彼はずっと自問し続けて得た結論を述べた。
「不安なのか? ……考えてみろ。タイランが都へ到達するまでの日数、何事か決定するまでに要する日数、決定が触れ回るまでの日数……。俺たちはまだ、彼らの先を行っているはずだ。」
 彼女は彼の表情を探った。彼の目は静かで、自信が漲っていた。
「不安な点を論っても、余計に不安になるだけだ。何もかも万全になるのを待っている時間もないんだ。むしろ時間が経てば経つほど、まずいことになる。機を逸するというやつだ。」
 彼女はにっと笑い
「……私は一歩踏み出すのに、躊躇いなどしないわ。あなたもでしょう、リオネル・ドナシアン?」
と言って、胸を逸らした。
「そうありたいね。初めて共闘するわけだ。さっさと食事を済ませろよ。戦場では早飯が基本だぞ。」
 そう言って彼は下がり、寝台に腰かけた。彼女の食事するのを眺め続けた。時々、彼女が非難するような視線を投げかけると、くすりと笑った。




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