転戦

1.

 キラナの領内は、夜のうちに出た。
 リオネルは、人々の目につかぬように、自分の外套をエレナに着せた。男物の外套が、彼女の身体をすっぽり覆い、みすぼらしい格好は見えなくなった。
 しかし困ったことに、“病”の患者のようにも見えた。身分の卑しからぬ男が“病”の患者を連れているのは、目立つだろう。追手をかけられたらと考えると、避けたい。
 どうしたものかと思いながらも先を進んでいるうちに、陽が昇った。乾いた荒野が、徐々にまばらな草地に変わった。すると、向こうから驢馬を連れた牧童が歩いて来るのが見えた。
 リオネルは馬を止めた。
「馬の影で休んでいるふりをして、待っていてくれ。」
「ええ。」
 エレナは素直に従った。

 リオネルは牧童に駆け寄った。
「やあ、おはよう!」
 にこやかに声をかけたが、牧童は歩を止めずに
「おはよう、旦那!」
と応えた。
「ちょっと待て。」
 牧童は怪訝な目を向け、立ち止まった。
 リオネルは牧童の姿を眺め回し
「お前、よさそうな物を着ているではないか。俺はかねてより、そういう物が欲しかったのだ。」
と言って、にっこり笑った。
「俺の服? 旦那が欲しがるような物じゃねえよ。」
「いや、欲しいんだ。ほら、狩りに出て、薮に入るだろう? 服が傷むんだよ。破れても惜しくないのがいいのだ。俺の着ているのと替えてくれ。」
「そんな立派な服は貰えねえよ。」
「いい。もう決めた。」
 戸惑う牧童には構わず、リオネルは上着をたくし上げた。
「ほら、お前も脱げよ。俺だけを脱がすつもりか?」
 牧童は逡巡したが、諦めて服を脱いで渡した。
「ついでに、その帽子もくれるか?」
「日向で帽子無しは辛いなあ……」
「お前だって内心、自分の服だけでは値が釣り合わないと思っているんだろう?」
 牧童はため息を一つつき、帽子も差し出した。
「ありがとう。」
「いいってことさ。」

 牧童はリオネルの上着を驢馬の背に括りつけ、シャツ姿で先を歩いて行った。気が変わって戻ってくるかと案じたが、振り向くこともなく去って行った。

 リオネルは安堵し、エレナの側へ戻ると牧童の服を手渡した。
「これに着替えろ。」
「リオネルは?」
「俺はこの上から外套を羽織るから。そうすれば、従者を連れた旅人に見えないこともないだろう?」
 エレナは周りを見渡した。誰もいないが、平原の街道の真ん中である。
「……ここで?」
「脱いで被るだけじゃないか。人が来る前に、ぱっと着てしまえよ。」
 彼は外套を半ば強引に脱がせると、彼女の身体を隠すように広げて、着替えを促した。
「無神経な男ね。」
 彼女は苦笑し、服を脱ぎ始めた。
 見るつもりはなかったが、外套越しに彼女の肌が見えた。点々と火傷の痕が赤く散っている。彼は目を逸らした。
(いったい……どうしたわけで、その火傷を……?)

 牧童の服を着て、帽子を目深に被ったエレナは、少年の従者に見えなくもなかった。剥き出しの腕や脚に傷痕が見えたが、貧民の女や“病”の患者よりも、ずっとマシな連れになった。
「急ごう。眠っていないから辛いだろうが、先を急ぎたい。」
「平気。私、独りで歩いてキラナまで旅したの。馬があるだけ、ずっと楽よ。」
 エレナは笑っているが、リオネルは笑うことができなかった。
「……そうか。」
とだけ応えた。

 二人は短い休憩を挟みながら、夕刻まで先に進んだ。
 いくつかの村があったが、小さな村の農家に泊めてくれと申し出て、詮索されるのも困る。夜闇が近づくと、二人は木立の間に身を寄せて仮眠を取った。
「やがて、大きな街道と繋がる。それを北上すれば、ラザックシュタールだ。」
「リオネルは行ったことがあるの?」
「ないよ。」
「どんなところかしら?」
「岩塩の取れる大きな交易都市だ。大食、遠いセリカの国からも商人が訪れる。そこから、ラドセイスは元より、マラガ、キャメロンまで、塩や東方の文物が運ばれる。街の主は、草原の大族長だ。」
「草原の蛮族が幅を利かせているのでしょうね。」
「そうだな。」
「どんな人たち?」
「難しい質問だな。書物と人伝ての話しかできない。……勇猛果敢で気位が高い。羊を飼う騎馬の民。大族長には絶対服従だそうだ。……ま、俺たちともマラガの人間とも違った思想の奴らだろうな。」
「そう……」
「もう休もう。」
 リオネルはエレナを抱き寄せ、目を閉じた。

 エレナも目を閉じたが、なかなか寝付けなかった。オクタヴィアの死際の様子が浮かび、身震いがひとつ出た。
 再会しなければ、リオネルは全てを諦めて、新しい生活を始めたのではないか。遠いキャメロンまで逃避行をすることもなく、それなりに穏やかに暮らしたかもしれない。
 少なくとも、オクタヴィアが突然の死を迎えることはなかっただろう。
 彼女には、全ての災いを自分がもたらしているように思えた。
(リオネルは何も言わない……。私のこと……どう思うの? )
 彼女は、城の柵越しに再会した時のことを思い出した。彼は彼女を一目で見分けたわけではない。彼の置かれた状況を考えれば、彼女が現れるなど想像もしていなかったのだろうから、仕方がない。それでも、何か納得できないものがあった。
(愛しているならば、一目でわかっても……いいえ、そんな甘い幻想は見ないわ。愛していなければ、そのまま捨て置けばいいだけのこと……)
 しかし、不安と不信は少しも治まらなかった。
「眠れないのか?」
 リオネルがぽつりと訊いた。エレナは頷いた。
 彼は彼女を抱き締め
「目を閉じているだけでも違う。街道に出たら、宿を見つけよう。それまで我慢だ。」
と言って、髪に口づけを落とした。



  Copyright(C)  2016 緒方晶. All rights reserved.