16.

 嫌な感触が、エレナの手に伝わった。オクタヴィアの身体の重みが、彼女にのし掛かった。
 二人は抱き合う格好で立ち尽くした。エレナの耳元に、オクタヴィアの苦しげな息がかかった。
「……この……!」
 視界の隅に、二人の男が駆け寄ってくるのが見えた。
 エレナは懐剣を握った手を開き、オクタヴィアの身体から逃れた。オクタヴィアはゆっくりと膝を折り、地面に蹲った。
 駆けつけた男たちが、二人の女を交互に見た。タイランは、オクタヴィアの側に跪き、様子を確かめた。
「オクタヴィアさま……」
 オクタヴィアはタイランを一瞥したが、懐剣の刺さった腹を押さえたまま何も言わない。
「お気を確かに!」
 タイランは彼女の背を摩り、どうにか横たえた。そして、立ち上がると、すらりと剣を抜き、大股にエレナに歩み寄った。
 リオネルはエレナを胸に抱き込み、タイランに半身を向けた。
 二人は無言で睨み合った。
「……キャメロンに“いる”のではなかったのですか?」
「キャメロンに“いた”。今はマラガにいる。」
 タイランはほっとため息をつき、視線を落とした。
「……だから、ですか……」
 剣を握ったまま、考え込んでいる。リオネルは身構えながら、様子を窺った。

 すると、背後のオクタヴィアが小さく
「リオネル。」
と呼んだ。
 リオネルは、エレナと目を見合わせた。彼女はそっと彼の胸を圧した。
 彼はオクタヴィアの側に跪き、覗きこんだ。
 彼女は懐剣の柄を握り締めている。彼は、抜かせないように手を重ねた。
「あの女、わたくしの腹を、あなたのややを宿す腹を刺しました……」
 彼は懐剣をちらりと見て
「いや。腹ではない。肝臓だな。」
と言った。
「あなたは、こんな時でさえ冷淡ね。」
 彼女は微かに笑ったが、それが痛みを誘い顔が歪んだ。
「痛い……」
 荒い息を吐き、彼女は彼の顔に手を伸ばした。
「青い瞳。冷たい海の色。……わたくしは、あなたにとって何だったの……?」
「美しく、誇り高いマラガの王女。讃えるに足る婦人だった。」
 彼女は微笑み、指先で彼の頬を撫でた。
「痛い……何とかして。」
「それは……」
「早く……!」
 二人の握った懐剣の刃先が、ぐるりと回った。彼女は呻き、息遣いが浅くなった。握っている手の力も弱まり、リオネルは重ねた手を離した。
「……海に捨ててね。」
「ああ。」
「……海の色の瞳。お好きな海。」
「うん。」
「眺めて。」
「そうするよ。」
「……海よ……?」
 オクタヴィアは念押しすると、虚空を睨んだ。
 末期の吐息が、やけに大きく聞こえた。

 いつの間にか、エレナとタイランが側に佇んでいた。
 リオネルは
「俺がオクタヴィアを殺した。」
と言って、二人をじっと見つめた。
 タイランは静かに
「マラガの王女は、自らの命をもって、邪な企みから国を守りました。」
と言って、落涙した。
 エレナは、オクタヴィアの遺体から懐剣を抜き、姿を整えた。
 三人は、オクタヴィアをキラナの断崖から海へ葬った。遺骸は暗い波に紛れて、すぐに見えなくなった。
 誰もが祈りの言葉を呟くことも忘れて、海面を眺め、潮騒を聞き続けた。

「……殿さま。」
 タイランの呼びかけに、二人は身構えた。
 彼は苦笑し、剣をリオネルに差し出した。そして、書状を隠した胸元をそっと押さえて見せ
「一旦城へ戻って、皆を治めた後……行きます。」
と言った。
「オクタヴィアのことは?」
「申し上げたでしょう。あの方は“自らの命をもって”と……」
「……頼んだ。」
 タイランは騎乗すると、二人に向かって手を挙げ、駆け去った。

 リオネルはエレナをオクタヴィアの乗馬に乗せた。
「馬があるのはいいけれど、キャメロンに帰る船は?」
 エレナの問いに、リオネルは苦笑した。
「船などに乗ったら、何かあっても逃げ場がないぞ。」
 彼女の胸に重いものが浮かんだ。彼女はすっと視線を外した。
 彼は怪訝な顔をしたが、問いかけることはしなかった。
「船には乗らない。」
 彼女はこっそり息をついた。
「だったら、どうやって海を渡るの?」
「俺たちが渡るのは、緑の草の海だ。」
 彼は北の方角を指差した。

 未知の土地を旅する。だが、今度は敵ばかりの中に一人ぼっちではない。不思議と恐れはなかった。
 例え、蛮族の闊歩するラドセイスの草原だったとしても。



  Copyright(C)  2016 緒方晶. All rights reserved.