8.

 祭りの日。
 村人たちに振舞う料理を整えるということを聞いて、エレナは手伝いたいと申し出た。
 リオネルは少し思案したが、厨房に入るのを許した。
 厨房に下りると、既に料理人たちが忙しく立ち働いていた。何をすべきか尋ねようとしたところ、背後から声がかかった。
「お前は?」
 見れば、裾の長い衣装を身に付けた貴婦人然とした初老の女が立っていた。
「あなたは?」
「わたくしが尋ねているのです。……レニエの奥方を知らないとは、お前は新しく来た農婦かしら?」
 エレナはリオネルの母だとわかったが、紹介されることも、話に上がることすらなかったから、存在を意識したことがなかった。慌てて
「私はエレナと……」
と言いかけると、奥方は
「ああ。リオネルが連れてきたとかいう娘ね。」
と言って、じろじろ彼女を見た。
 値踏みする視線だった。彼女は屈辱を感じた。
「どこから? 誰の娘?」
 奥方の眼鏡には適わなかったらしく、ぞんざいな口調だった。負けるものかとエレナは胸を張り
「クルジェから参りました。クルジェの騎士が私の父。」
とはっきり答えた。
 奥方は視線を泳がせて
「クルジェ……?」
と言った。
(クルジェなど知らないと言いたげね……)
「カスティル=レニエの家には相応しくないとお考えですか? 確かに、父は身分も低く、貧しい領地の主ですが、由緒のある家系ですわ。」
 奥方は白い面を向けたまま、何の感情も浮かべず聞いていたが
「そう。どうでもよろしいのよ。リオネルが納得しているなら、わたくしには関わりのないこと。でも、レニエの女主人はわたくし。厨房を監督するのもね。弁えていただきたいわ。」
と言った。
 そして、エレナの横を通り過ぎると、厨房を眺めた。監督するのは自分だと言ったくせに、彼女は料理人に何の指示も与えなかった。料理人が
「いつもの通りでよろしゅうございますか?」
と尋ねると、初めて
「ええ。」
とだけ答え、踵を返した。
「毎年、朝早くからこれですもの。わたくしには真夜中の時間なのに……。迷惑なこと。」
と、彼女はエレナに呟き、あくびをして立ち去った。
 奥方の態度は料理人たちには当たり前のことらしく、軽く会釈をすると、すぐに仕事に戻った。
(リオネルよりすごいのを見たわ……)
 エレナは妙な感心をしながら、料理人たちの仕事を手伝った。

 祭りは賑やかだった。
 にわかの屋台が出、旅の詩人が歌い、歓声と笑顔で満ちていた。
 城から提供されたご馳走は、皆で楽しんだ。やがて、踊りの輪が出来た。エレナはリオネルに誘われ、皆のしきりの勧めに従って、その中へ入った。
 教師の教える形の厳しい踊りとは違い、農民たちの自由な踊りは楽しかった。
「もう無理。」
 息を切らせて座りこむと、リオネルは水の入った杯を差し出し
「これ以上踊ると、踊りの好きな森の妖精に連れて行かれそうだ。」
と言って、笑いかけた。
 エレナもつられて笑い、水を飲み干した。
「ああ、おいしい。ありがとう。」
 そう言うと、彼は満足そうに微笑んだ。彼女は彼の顔を見て、面ざしのよく似ていた彼の母を思い出した。
「リオネルのお母さま。今朝、厨房で会ったの。……来ないのね。」
「ああ、母上は来ないよ。来たことがないね。名家の姫君だったんだ。畑にも村にも下りたことはないね。」
 リオネルは微笑んだまま、何でもないことだというように答える。
(クルジェでは、お母さまはたびたび村に行っていらしたけれど……。伯爵の奥方になると、そういうことはしないのかしら……? )
 誘われて来たが、本来すべきではなかったのだろうかと、エレナは不安になった。それを見越したのか、彼は
「エレナは来ていいんだよ。」
と言った。
「名家の姫君ではないから?」
 冗談めかして尋ねると、彼は
「そうではない。俺の奥方は、俺といつも共におらねばならないんだ。」
と言った。
「誰が“俺の奥方”よ? 勝手に決めないで!」
 そうは言ったものの、さして腹はたっていなかった。彼はにっと笑って
「いつものエレナだな。」
と言った。
 エレナは顔をそむけた。
 彼女の中に、複雑で不可解な想いが芽生え始めていた。



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