4.

「では……俺と勝負をしよう。」
「勝負?」
「お前を喜ばせることができたなら、俺の勝ちだ。ひとつ勝つたびに、俺はお前に触れていく。」
「……負ければ?」
「俺には何もない。」
「だったら、私が勝ったら、クルジェに帰る権利をいただくわ。いいでしょう?」
 彼は口角を上げて、にっと笑った。
「……料理が来た。とにかく食事をしようではないか。戦いに臨むのに、腹が減っていてはいけない。」

 リオネルは、エレナの盃に赤い葡萄酒を注いだ。
「何に乾杯すべきかな? 俺の美しく荒々しい花嫁に乾杯しよう。」
「“俺の美しく荒々しい花嫁”など存在しないわよ! 戦いの火ぶたが切られたことに乾杯!」
 エレナはそう吐き捨てると、盃をつかんだ。
 リオネルは盃を上げ
「俺の美しく荒々しい花嫁に乾杯。」
と笑いかけた。
 彼女は不愉快そうに彼を睨み、一気に酒を飲み干した。彼女は、空になった盃をじっと見つめた。
「……美味いか?」
「ええ。こんな上等な葡萄酒は初めてだわ。香り高くて、適度に渋みが残っている……」
 彼女は感嘆の言葉を途中で飲み込んだ。彼は満足そうに微笑んでいた。
「お気に召したようで、光栄だね。だが、レニエの葡萄酒の中では、それは上等なものでもない。」
「悪かったわね。貧しい騎士の娘は、これで充分なのよ!」
 彼女は憎まれ口を叩いたが、彼は意にも介さない。
「気にすることはない。これから、お前に最高のものとはどういうものか、教えていく。」
 そう言って、彼は立ち上がり、彼女のすぐ側に歩み寄った。そして、彼女に屈みこむと、耳許で
「楽しみだね。」
と囁いた。
 低めた男らしい声に、彼女はぞくりと身震いした。
 彼女は動揺を悟られぬように気を落ち着け、卓の上の食事用の小刀を彼につきつけた。
「無礼者! 気安く近寄らないで!」
 彼は両手を上げ、笑いながら
「そう? お前は今、どっきりしたようだったけれど?」
と言った。
 エレナは目元を赤くした。
「お前はわかりやすいね。ひとつ勝ったから、ご褒美だよ。」
「……勝った?」
「お前は、俺の選んだ葡萄酒に感嘆した。俺の勝ちだ。」
「不意打ちをするのね!」
「ああ。お前にとって、ここは敵地だろう? 気を抜かないようにね。時を選ばず、場所も選ばず、俺は攻撃する。」
「この料理に感心したら、それもお前の勝利にするというわけね?」
「いや。そんなことをしていたら、今晩、お前は俺に抱かれなくてはならなくなるじゃないか。そんな簡単な戦いはつまらない。お前にはずいぶんと配慮が必要なようだね。料理については見逃してやるよ。」
 リオネルは高笑いした。エレナは血が滲むほど唇を噛みしめるしかなかった。

 料理は素晴らしかった。エレナにも馴染み深い食材だったが、クルジェでは絶対に使えない高価な東方の香辛料が使われていた。
 リオネルは料理については勝負しないと言ったが、彼女は疑い、表情を引き締めて平静を装った。
 彼は彼女の食べるのを見つめながら、食事をした。
(痩せ我慢を……)
 彼には可笑しくてしかたがない。とうとう笑い声が漏れた。
 エレナの目許に癇が走り
「何よ! 何が可笑しいの? 本当に無礼な男ね!」
と叫び、持っていた食器を放り投げた。
「行儀が悪いな。投げたら危ないじゃないか。」
 彼は笑ったままだ。
「ええ! お前と違って、こういう育ちなのよ。ご不満なら、喜んでクルジェに戻りますわ!」
「お前の帰るところは、クルジェではない。レニエの俺のところだ。」
「……いったいどうして私なのよ? お前なら、いくらでも高貴な姫君と縁づくことができるでしょ?」
「高貴? お前ほど高貴な姫がいるわけがない。」
 エレナは意味するところがわからず、黙りこんだ。
 リオネルは遠い目をして語り出した。
「森でお前を初めて見たとき、お前の奥に潜む情熱の萌芽を見つけた。それからずっと、俺はお前を見守ってきた。」
「あの時? 乱暴者から助けてくれた時?」
「いや。もって前だよ。お前は……そうだな……まだ十にもなっていなかっただろう。クルジェの森で、百姓の子と遊んでいたな。ああ、そうだ。王の戴冠式に出席した帰りだった。十年前だね。」
 彼は、大切な思い出を味わっているように、うっとりとした。
(そういう優しげな顔もできるのね。でも、気は許さない。)
 彼女は眉根を寄せて、彼の語るのを待った。
「何度もクルジェに出かけて、お前が俺の思う通りに成長するのか観察した。……お前はちゃんと俺に相応しくなった。美しく、激しく、荒々しく。勇ましい女戦士にね。高貴とはそういうことだ。何ものにも侵されない強い心。お前にはそれがある。俺にもある。同じ種類の人間だ。惹き合い、結ばれるのが自然なことだ。この世の黄金律だ。」
 彼はそう言って、微笑みかけた。
 彼女はまた鼓動の弾けるのを感じた。だが、憎々しげに
「気持ち悪い!」
と言った。
「何が?」
「だって、お前はこっそり私を眺めていたんでしょ。十年も! ひとり納得して、悦に入って……。気持ち悪いったらありゃしない!」
 彼は驚いた顔をし、やがて大笑いした。
「確かにそうだな! でも、気になるじゃないか。お前が何をしているのか。例えば……あの百姓の子との関係とかね。」
「どういう関係よ!」
「ユーリといったかな……愛し合っているんだろ。仲睦まじかったね。森で恋のレッスンをしていた……」
「覗き見? ますます気持ち悪いわ! ええ。ユーリのことが大好きよ。他の男が好きな女を奥方にする気?」
「すぐにユーリのことは忘れるからな。問題ないね。相応しくない者をいつまでも愛することはできない。」
 エレナはもうそれ以上、言い返すことはしなかった。効果のある反撃を何ら思いつけなかったのだ。無言と無視に努めたが、眼差しに焼き殺すような怒りが滲むことだけは、隠せなかった。

 食事が終わった。
(どうせ長居して、私をからかうのでしょうよ。)
 しかし、リオネルは
「さて……お前と夜を楽しみたいところだが、失礼するよ。」
と言って、退出しようとした。
「えっ……?」
 エレナは思わず問うような声を発して、慌てて飲み込んだ。彼は聞きとめて苦笑し
「もっといてほしいのかな? だが、今日は疲れている。」
と言った。
「……見かけによらず、年寄りなのね。」
 彼女は皮肉を言ってみた。すると、彼は少し辛そうな顔になった。
「ここのところ、港で働き通しだったんだ。わかるだろう?」
 エレナは軽い調子で笑いながら
「ええ、そうね。“私の花嫁”を後回しにするほど大切な港。港なんかが一番大事なのよね!」
と言った。
 すると、言い終わるやいなや、リオネルはエレナを壁に押し付けた。顎を持ち上げ
「嘲るな! 海と港はレニエの力の源泉だ。海なくして、レニエはない。」
と低く凄んだ。
 エレナは、暗い海色の瞳に射すくめられた。
(怒っている……。怖い……。)
 そう思うと、勝手に
「ごめんなさい……」
という言葉が口をついて出た。
 途端に、彼の表情が和らぎ
「言い過ぎたね。レニエのことは、おいおい教える。」
と言い、頬に口づけをした。
「ちょっと!」
「それは、今お前が屈服した分の報酬だよ。」
「屈服などしていないわ!」
「そうか? “ごめんなさい”と聞こえたがね。」
 彼女が悔しそうにするのを、さも愉快だというように彼は笑った。
「おやすみ、俺の花嫁。明日はもっと戦線を整えておくようにね。」
 エレナは歯噛みしながら、リオネルが去った扉をいつまでも見つめていた。



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