2.

 煌めく碧い海が水平線で青い空に融け込んでいる。リオネルは木陰に腰を下ろし、港と海を眺めていた。黒い髪を潮風が弄って行く。
(きっと、エレナは怒りを募らせているのだろう。俺がちっとも現れないのだからな……)
 エレナの許へ届けさせるように、リオネルは贈り物と小さなカードを予め用意していた。それは十日分あった。まだ残っている。
 当初の考えでは、もちろん自分で毎朝届けるつもりだった。港で面倒が起こったから、それはニーナに依頼したが、かえってその方がよかったと彼は思っていた。
 朝を迎えるたびに、彼女が苛立ちを満面に浮かべているだろうと思うと、苦笑が出た。
 白い肌が怒りに紅潮して、緑色の瞳が煌めいている彼女は、どんなに美しいだろうと思った。
「少し……ニーナが不憫であるな。」
 そして、指を折って数え、最も彼女が激昂するであろうカードを見た朝が、今日であることを思い付いた。彼は高笑いした。

 その朝、エレナを起こしにきたニーナが、いつものように盆に載った贈り物を差し出した。
 最初の朝は見事な袖。次は、上等な絹の手巾。珍しい菓子。宝石箱。真珠とエメラルドの耳飾り。
 既に仇敵に思えている男の贈る品は、彼女には残念なことに、持っていたいと思うようなものばかりだった。
(女の好む品物を熟知しているのね。嫌な男。)
と思ったが、心の片隅に
(趣味はいいわ。……少し、歳を取った男なのかしら?)
という気持ちがあった。
 そんなことを考えながら盆に掛けられた亜麻布を取ると、耳飾りと揃いの首飾りが現れた。
 煌めく大きなエメラルドに感嘆した。
 ニーナがにこにこして
「ああ、素晴らしいわ。エレナさまの瞳の色に合わせたのですね。」
と言った。
 エレナはついていたカードを見た。
“おはよう、エレナ。愛しているよ。君は?”
(ふざけたことを……! )
 怒りがふつふつと湧き上がった。彼女は
「……リオネルというのは、どんな男なの?」
と思わず聞いていた。
「あら? 初めてお尋ねになった。知りたくなったのですね。」
「……で? どうなの?」
「そうですねぇ……」
 ニーナは笑いながらはぐらかせた。促す視線を向けると
「少し癖のある方ですね。」
と答えた。
「癖?」
「ええ。もうしばらくすれば、お帰りになるでしょう。ご自分で確かめた方が、納得なさるのでは?」
 エレナは我慢ができなくなった。
「私、港に行く。」

 ニーナはエレナを止めたが、結局共に港に下りることになった。
 エレナは初めて間近に海を見た。どこまでも続く海原。港の活気。大きな船。
 彼女は当初の目的も忘れて、あちこち歩き回っては見て、人々にあれこれ話しかけた。物珍しく、答えが返ってくるたびに目を輝かせる彼女を、ニーナは微笑ましく見つめた。
 エレナは休憩していた水夫を見つけると、側に座り込み、いろいろ尋ねた。

 エレナが最も関心を惹かれたのは、葡萄酒を船に積んで、マラガに運ぶことだった。
 マラガへは、険しい山を越えて行かねばならないと思い込んでいた。山を越えれば、蛮族の闊歩するラドセイスの草原だ。誰も危険を冒して、マラガへ行こうと思う者はいなかった。
 港から港へ、船倉いっぱいに物品を運べる船。海は危険だというが、陸路を行くよりはずっと効率がいい。
「昔は、マラガの商人が買い付けに来ていたんだが、今はこっちからマラガへ売りにいくのさ。儲けが格段に上がる。」
 水夫はそう言って、陽気に笑った。
「そうして、マラガから珍しい物を持ち帰るのね。」
「ああ。そいつはこっちで、高値で売るんだ。」
 何度目かの感心をしていると、水夫は
「リオネルさまが始めたんだ。最初は、マラガの商人から、捨てるようなぼろ船を譲り受けてね。そっから船を増やしていった。」
と言った。
 エレナは港へ来た理由を思い出した。途端に、不機嫌さが顔に出た。水夫は気づかずに続ける。
「大したお人だよ。そんなことをしなくても、ご自分は十分な暮らしが出来ただろうにね。おかげで、レニエは皆、楽な暮らしが出来るようになったわけだ。」
「……そう。レニエの殿さまは、如才ないのね。その彼はどこにいるのかしら? 港にいると聞いてきたんだけど?」
「リオネルさまは……あそこで働いていたけれどね……」
 水夫の指さす先には、傷んだ船があった。エレナが来る少し前の時化た夜に岩礁に乗り上げたという。積み荷を出来る限り下ろし、やっと港へ引いてきたとのことだった。
「大事な船は、後生大事にご自分で扱うということね。」
 エレナは皮肉を言ったが、水夫は感知せず
「ああ。俺らと同じにね。海水に濡れて働きなさったよ。」
と微笑んだ。
 彼があまりに誇らしげにするので、彼女はそれ以上のことは言わなかった。
 辺りを見渡して見たが、リオネルらしき男はおらず、水夫や雑役夫ばかりだった。
「どこ?」
 水夫も見渡してみたが、見当たらず
「さあね。俺はリオネルさまの見張り役じゃねぇよ。」
と軽く言った。そして、向こうからやって来る知り合いの水夫に手を振り、エレナの側から去って行った。

(領民には慕われているみたい……)
 エレナは、自分の印象を打ち砕かれたように思われ、苦々しかった。
 リオネルが見つからないなら、長居しても仕方がない。充分話も聞けた。
「ニーナ。お城に戻るわ。リオネルは、私から姿を晦ましていたいようだから。」
 エレナは、海風に乱される赤い後れ毛を抑え、城へ歩き始めた。
 朝の一仕事を終えた男たちが、道端で軽い食事をしたり、サイコロで遊んだりしている。
 居眠りをしている者もいた。
 誰もが生き生きと陽気で、苦役を強いられている風はまったくなかった。
 城へ上がる道の階段を上がり始めると、足許をさらりと何かが撫でて行った気がした。思わず立ち止まると、階段の脇で休んでいた水夫が一人、エレナに片手を上げてにっこり笑った。
 裾に潮の吹いた膝丈のズボンを履き、裸足だった。麻のシャツが肌蹴て、日焼けした肌が見えていた。黒い無精ひげが伸びた顔も日焼けしていた。
 屈託ない笑顔に、エレナも微笑み、手を振り返した。彼女は
(リオネルはともかく、レニエの人々はいい人ばかりね。)
と思った。



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