第一の戦い

1.

 レニエの城に到着したのは夜半だった。盛大に篝火が焚かれ、使用人が居並んでいた。城までの道中でも、大勢の領民も、好奇心いっぱいで見守っていた。その中には、見知った顔もあった。
 エレナは皆の雰囲気に呑まれそうだったが、気を落ち着けて、顔を上げ、馬車を降りた。
「ようこそ、クルジェのお嬢さま。執事でございます。道中はいかがでしたかな?」
 初老の男が名乗って、手を貸した。柔らかな態度だった。
 彼女は気を許すものかと、彼を睨み
「快適だったわ。あれなら、クルジェへ帰るときも心配いらないわね。」
と答えた。
 執事は苦笑し
「あなたの帰るところは、もはやレニエですよ。」
と窘めた。
 彼女は鼻を鳴らし
「それで、私を買い取った伯爵は? 見たところ、それらしい者はいないけれど、出迎えもしないのかしら?」
と顎をそびやかせてみせた。
「リオネルさまは港でございます。ちょっとした不手際がありましてね。しばらくお戻りになりません。」
「港?」
「ええ。」
 海から遠いクルジェの生まれ育ちのエレナには、馴染みのない単語だった。仮にも自分を娶ろうというのに、出迎えよりも仕事を優先したリオネルに、更に怒りが湧いた。
「奥方にしようという女よりも、港が大事というわけね。情も礼もない男のようだわ。私もそのように振る舞うから、覚えておいてね。」
 そう言い放つと、執事はけらけら笑った。
「骨のあるお嬢さまですなあ。リオネルさまが選んだだけのことはある。」
 エレナは嫌味が通用しないことに苛立ったが、それ以上言うことはしなかった。
「お部屋にご案内します。お疲れでしょう。お召し替えなさって、寛がれるといい。」

 案内された部屋は何不自由なく整えられていた。
 庭に面した部屋で、外を見ると、遠くに何かの灯りがいくつも煌めいていた。
 婦人室らしい愛らしい調度が置かれている。
 長櫃を開けると、いっぱいに衣装が入っていた。
 部屋の隅に凹室が設けられており、掛けられた分厚いカーテンを開けると、寝台が置かれていた。
 美しい彫刻の施された立派な寝台だった。その上には、毛皮が裏打ちされた毛布と羽毛の布団が掛かっていた。敷布は滑らかな亜麻布だった。
 王族の使うような寝具である。
 贅沢さに、エレナは怯んだ。
(こんなことで感心してはいけない……)
 彼女は、誰もいないのにも関わらず、厳しい表情を作り、下着姿になると、寝台に上がった。
 寝台からカーテンを眺めた。薔薇の文様の織り込まれた薄紅の布。東方のものだと気づいた。
 彼女は苦々しく思いながらも、使ったことのない上等な寝具の快さに、そのまま眠りに落ちた。

 翌朝は遅くまで目覚めなかった。侍女に揺り起こされ起き、自分のいるところを自覚するまで混乱した。
 小柄な若い侍女は微笑み
「私はニーナ。お嬢さまにお仕えします。」
とお辞儀をした。
 エレナは黙ったまま、ニーナをじろじろ眺めた。ニーナは意に介さず、エレナを促して身支度を整え始めた。
「自分でできるわ。」
と言うと
「慣れていただかないと……」
と答えた。
「この美しい髪は……コテを当てた方がうまくいきそうですね。豊かだから。」
と言いながらも、ニーナは器用に櫛だけで髪を結い上げた。
 着替えが済むと、ニーナは箱を持って戻り、エレナに渡した。
 中には、豪華な刺繍を施した袖が入っていた。一緒に入っていた紙片を見ると
 “おはよう、私の花嫁。君に用意した部屋は気に入った? ”
と書かれていた。
 エレナは署名を憎々しげに見つめ、紙を握りつぶした。ニーナはあっと驚いたが、すぐに笑い声に変わった。
 エレナは赤面し、ニーナに背を向けて庭を眺めた。庭の向こう、眼下に紺碧に輝く水面が広がっていた。
「あれは……」
 ニーナが歩み寄り
「海ですわ。」
と答えた。
「……あそこに、私を勝手に花嫁と呼ぶ男がいるというわけね!」
 エレナは海を睨みつけた。

 数日が経った。しかし、リオネルはエレナの前に現れることはなかった。



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