12.

 エレナの意思を無視して、すべてが進んでいく。ニーナをはじめ、レニエの人々には好感を持っているが、彼女の味方にはならない。
(逃げ出したい……)
 しかし、クルジェの両親はこの縁談を拒否しなかったのだ。逃げ帰ったところで、リオネルはもちろん連れ戻そうとするだろうし、両親も匿えないだろう。
(このまま、あの強引で偉そうなあいつの好き勝手にされる……。勝負も何も、最初から私に不利だったんだから。)
 “お前にはずいぶんと配慮が必要だな。”
 リオネルが初めに言った言葉がよみがえった。
 配慮があったとしても、自分に勝ち目はないのではないかという気は、ずっとしていた。
(連れてこられた時も突然だった……。でも、今度だけは突然の投了は嫌。)
 そんなことを思い悩んでいると、ぽたぽたと木の葉を叩く音が聞こえてきた。
 エレナは、クルジェの大雨のことを思い出し、眉根を寄せた。
(雨は嫌い。)
 開け放たれた板戸を閉めようと、窓辺に寄ると、黄昏の庭の向こうに三層の塔が見えた。陰鬱な姿を暮れなずませている。
「荒ぶる神が棲むとか……言っていた。」
 彼女はぽつりと呟いた。そして、ふらりと部屋を抜け出した。

 塔の許は、聞いた通り人気もなかった。灰色に退色した古い板の扉があったが、閉ざしている言うのもおこがましいような造りだった。外壁を触っていた手を見ると、べったりと煤がついていた。
 そっと押してみると、すっと開いた。鎖していないのも本当だった。
 足を踏み入れ、松明の灯りを巡らせた。天井が高く、元は倉庫として使われていたのだろうと思われたが、今はがらんとして何も入っていない。
 壁伝いに階段まで移動した。内部の壁も煤けており、エレナの指を再び黒く汚した。
 濃密な闇が足許に絡みついていく。奥に入るに従って、足どころか、身体を温い闇に包まれていくような感覚があった。
 二階に一部屋あったが、木片が散乱して、何に使われていたのかわからなかった。
 そこを覗いた時、初めて怖いと思った。入ってはいけない気がした。慌てて階段を上って、彼女は不可解な気持ちになった。
(階下ではなく、どうして上ったんだろう……?)
 三階部で階下を見下ろしたが、闇に沈んだ階段を下りていく気になれなかった。二階の部屋には戻ってはいけないと、頭の中で何かが警告していた。
 三階の部屋に入ると、さらりとした風が足許を吹き抜けた。奇妙な爽やかさがあった。
 エレナは部屋を見渡して、窓が開いているのに気づいた。板戸はなかった。そこから、風が吹き込んでいるのだと思った。窓辺に近づくと、炎の舐めた跡が見取れた。
(火災があったのね……)
 風が赤い髪を吹き乱した。降り始めた雨が室内に入り込み、床を濡らし始めた。そこにいるのに、怖さはなかった。二階の部屋の禍々しさは少しもなく、むしろ空気が心地よかった。

 闇に目が慣れてくると、古い櫃があるのが見えた。窓辺に運んで座り、外を眺め続けた。
 暗い木立の向こうに、塗りつぶしたような黒い闇が広がり、そこに灯りがいくつか揺らめいていた。もう、彼女にも馴染になった、海と浮かぶ船の灯りだ。
 見つめていると、ひどく切ない気持ちが湧き上がった。
 “帰りたい……”
 ぼんやりと思考の中に、その言葉が浮かんだ。
 “ここには何もない……。一人ぼっち……”
 また、ぽっかり浮かび上がった。
(クルジェに帰りたいと思った……?)
 しかしその時、エレナはクルジェのことを思い出していたわけではなかった。奇妙な気がしたが、クルジェという言葉に触発されて、故郷の思い出が浮かんだ。
 クルジェの館、寄り添い微笑む両親。村。森。ずっと昔に出てきたような気がした。
(ユーリはどうしているかな? )
 そう言えば、レニエに来てから、ユーリのことをはっきり思い出したのは初めてだった。あれほど親しくし、大好きで、いつも心の中にいた彼なのに、不思議だった。
 クルジェを出るとき、騾馬に乗って追って来た彼のことを思い出したが、遠い昔のことのように、懐かしく思えた。
(食い入るような目で、私を見つめていた。青い瞳からぽろぽろと涙を落としていた……)
 すると、また奇妙な気がした。頬をふわりと風が撫でて行った。
 “ユーリが好きなの? ”
 心の中に浮かんだ質問に、彼女は即答できなかった。
 “リオネルは? ”
「わからない……」
と、今度は口をついて答えが出た。
 “婚礼があるって。どうするの? ”
 “リオネルの為に、あの花嫁衣裳を着るの?”
 “それとも、ユーリにするの?”
 “ユーリがいいなら、クルジェに逃げ出さないとね。”
 エレナははっとした。次々に浮かぶそれらの質問は、彼女自身の問いではない気がしたのだ。
 くるりと振り向いたが、暗闇しかない。
 “無理だ。エレナはクルジェに帰る気がないのだ。”
 今度は、前方から思念が心の中に侵入してきた。言葉の調子も重々しくなっていた。
 慌てて向き直ったが、目の前にはもちろん窓しかない。
 彼女は目を見開き、ぶるりと身震いした。窓から吹き込んで来る風とは違う、涼しい風が足許をさらって行った。
 “我はどちらでもよい。リオネルでもユーリでも。”
(これは“私”じゃない!)
 柔らかい風が、ふわふわと身の周りにまとわりついた。全身が粟立った。悲鳴も出ない。
 かろうじて、右腕で空を払うと
 “下を見よ。”
という言葉が頭の中に聞こえ、ふっと気配が消えた。

 塔の真下に、たくさんの灯りが揺れていた。初めて、皆が彼女の名前を大声で呼んでいるのに気づいた。
 階段を上って来る足音が聞こえた。
 やがて、二階の扉の開けられる音がした。
「エレナ!」
 リオネルの声だとわかった。また、階段を駆け上る音。彼女のいる部屋の扉が乱暴に開けられた。
「エレナ……」
 彼の表情が見る間に緩んだ。
 彼女はゆっくりと立ち上がり
「……探していたの?」
と尋ねた。
「当たり前だろ!」
 リオネルの大声に、ぼんやりしていた気持ちがしゃんと自分に戻って来た。
「こんなところに一人で上がって……」
 彼は視線を落とし、呟いた。いつもの、からかうような笑みはなかった。
「何をするつもりだったんだ! ……婚礼がそんなに嫌か?」
 苦しそうな響きだった。
「ええ、そうよ! お前なんかに嫁ぐくらいなら……ここにいる荒ぶる神とやらに嫁ぐ方がマシ!」
 エレナはそう言うと、両手で窓枠を掴み、片膝を掛けた。
「愚かなことを申すな!」
 怒声が飛んだ。彼女は怯んだが、振り向き
「さよなら、リオネル・ドナシアン。」
とにっと笑った。
 下を見ると、目が眩んだ。啖呵を切ったが、躊躇していた。
 “海の底にもレニエはある。”
 “葡萄の代わりに真珠が生る。”
 “ひとの子に煩わされることもない。永遠の静寂だけがある。”
 “そこから飛べばよい。我が抱きとめてやる。”
 頭の中を冷たい指がかき回しているような感覚があった。
「お前は、俺ではなく、おぞましい鬼神を選ぶのか? 暗い海の底から来た、愛も知らぬ冷たい神を?」
 リオネルの言葉は静かだったが、差し迫った感情が滲んでいた。
 “どうする?”
(私は……?)
「俺を見ろ! 俺は美しいだろう? お前を愛している。熱い肌でお前を温めることもできる。さあ、来い!」
 “どうするのだ! ”
 エレナはもう一度眼下を望んだ。雨の中に松明が揺らめき、皆がわあわあ何かを叫んでいる。
「……リオネル!」
 彼女は、窓から彼の胸に向かって飛び降りた。しがみつく彼女をリオネルは抱きしめ
「いい子だね、エレナ……」
と言って、長い安堵のため息をついた。
 彼女は彼の肩に顔を埋め、すすり泣いた。
「泣いているのか? ……怖かったんだね。」
 いつもなら、否定し罵倒するところだが、言葉も出なかった。
 リオネルはかすかに笑って
「だが……ちょっと抱きつき方が違うな。せめて、横抱きにしたいんだが……」
と言った。
 エレナは自分が、リオネルの胴体に手足を巻きつけて抱きついていることに気づいたが、手も脚も強張って思い通りに動かなかった。
 彼は身動きもしない彼女に苦笑し、その格好のまま部屋を後にした。



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