11.

 エレナがゆっくり口を開いた。
「美しいひと。廊下ですれ違ったの。お前のお客さまでしょう?」
「ああ。」
「私をすごい目で睨んで行ったわ。」
 彼女は探るような目で見つめている。彼は
「そうなんだ?」
と軽く応じた。彼女が怒りに上気するのがわかった。だが、彼女は静かに
「……誰?」
と尋ねた。
「シビウの公爵の奥方。」
「奥方?」
「ああ。」
「どういう仲?」
「気になるの?」
「答えられない仲なのかしら?」
「マラガに出かけた時に知己を得た。」
「マラガ? マラガのひとなの?」
「ああ。マラガの王弟の姫君だよ。オクタヴィア王女。」
 早口に進められた会話が途切れた。エレナの顔に隠しきれない驚きが浮かんでいた。
「何故、レニエに……?」
 リオネルはにっと笑った。
「聞いていたくせに……」
「……早く結婚しなければ……って……」
 彼女は思わず口に出して、口をつぐんだ。盗み聞きをしていたと白状してしまったのだ。
 しかし、彼は責めることもせず、涼しい顔で
「そうだね。五日後にしようか。」
と微笑んだ。
「冗談じゃないわよ!」
「いずれするんだから。」
「ない。」
「ある。」
 彼女は苛々を押し隠しながら
「お前は、あんな美しい王女さまに求婚されていたのに、私を? おかしいんじゃないの?」
と訊いた。
「オクタヴィアとは気も合わなければ、考えも合わないが、今日ひとつだけ激しく同意することを言っていたよ。……愛に理由はいらないってね。」
「私とも、気も考えも合わないでしょ! あのひとはお前が好きなのだから、そっちを愛するように努力することをお勧めするわ。」
 それを聞いて、リオネルは高笑いした。
 エレナは苛立ちを隠せなくなった。その苛立ちを更に煽ることを、彼は口走った。
「何? 妬いたの?」
 彼女は浅い息を吐き、拳を握りしめた。殴りつけたいところだが、そうもいかない。
「妬くもんですか!」
「そう? まあ、ご婦人に見向きもされない男を夫にするよりいいだろ。」
 この状況でからかうリオネルの気持ちがわからず、エレナは刺し殺すような目で彼を睨み、踵を返すと、小走りに退室していった。

 エレナは自室に戻り、後ろ手に扉を閉めたまま、俯いて立ち尽くした。悔しさでいっぱいだった。リオネルに軽くあしらわれたからか、オクタヴィアのことなのか、判然としなかったが、それを考えることすらできなかった。
 誰かに腕を取られ、はっと気付くと、ニーナが心配そうに覗きこんでいた。
 彼女にそんな顔を向けられることも悔しかったが、彼女の気持ちを傷つけるようなことは言いたくない。
「ニーナ。どうしたの?」
 ニーナの表情のわけはわかっていたが、エレナは知らぬふりで尋ねた。
「だって……」
「ああ、お客さまのこと? 私に教えなかったことを気にしているの? それなら、平気よ。」
 無理をして笑いかけたが、ニーナはますます顔を曇らせた。言いづらそうに
「あの……お話しなどなさったのですか?」
と訊く。
 苦々しい思いがしたが
「いいえ。廊下ですれ違っただけ。」
と何でもないように答えた。
 ニーナは探るような目を向けた。
「気性の強い方なの。強引なところがおありで……」
「どうして、そう言い連ねるのかしら? 私は何も気にしてはいない。」
「だって……目が……まるで、戦いの後の戦士のように、ぎらぎらと光っています。あ、失礼なことを……」
 恐縮し、焦るニーナの様子に、エレナは笑みが出た。
「私を恐れているの? 馬鹿な子ね。私が戦ってきたとするなら、その相手はリオネルよ。あの美しい王女さまではないわ。」
「王女さまですって? ……すっかりお知りになったのですね。……リオネルさまのことだから、すらすら明かしておしまいになったのでしょうね。」
「ええ。求婚されていたとかね。」
 言ってしまってから、それは盗み聞きで知ったことか、リオネルが話したことなのか考えたが、どうでもよかった。

 ニーナは難しい顔で考え込んだが
「リオネルさまは! リオネルさまは決して、オクタヴィアさまを受け入れたことはありませんよ! 誤解なさらないで!」
と大声を出した。
 彼女は更に必死に続けた。
「リオネルさまは、ずっとエレナさまをお迎えになるのを待ち続けていたの。それはそれは楽しそうに、あなたのことをお話しになった。私、あなたにお会いする前から、あなたに憧れていました。リオネルさまの恋する姫君は、どんなに素晴らしいかって! お世話するように言われた時は、とても嬉しかった。あなたがご到着された時も……」
 言っているうちに興奮したのだろう、ニーナはすすり泣き始めた。エレナは、彼女を抱き寄せ
「ニーナ、ニーナ。どうして、そんなに? 買いかぶりよ。私は素晴らしくなどないわ。」
と宥めた。だが、ニーナは
「いいえ、いいえ。リオネルさまに相応しいのはエレナさま。レニエの奥方さまになるのは、あなたしかいない。」
と言って、ぽろぽろ涙を流した。
(この子……。困ったことに、こういうところが可愛いのよね……)
 ニーナは真面目くさった顔をして
「だから、オクタヴィアさまのことなんか、気になさらないで。」
と言った。哀願するような響きさえあった。
 エレナは苦笑いした。
「気になどしないわ。ただ、マラガの王女さまともあろう方が、何故リオネルなどに熱烈に恋するのかわからないだけよ。……酷い顔よ、ニーナ。顔を洗っておいで。」
 彼女は、ニーナがしょんぼりと出ていくのを眺めた。

 すると、入れ違いに、リオネルの若い従者が入ってきた。さっき控えにいたヴィダルだった。
「何か? あんたもリオネルの弁護に来たというわけ?」
 ヴィダルは、エレナが渋い顔をするのにも構わない。
「お嬢さまは、オクタヴィアさまのことを気にしておいでですね。」
「あんたもニーナと同じことを言うのね……」
 “そんなことはないわ”と言う前に、彼は
「怒って出て行かれた。」
と言って、苦笑した。
「どうしてお怒りになったのかな?」
 エレナが答えないでいると
「お嬢さまはこのところ多忙でしたね。畑で働いたり、祭りに出たり。おお、それに百姓衆や水夫にいろいろとご質問なさっていた。」
と言って、にやりと笑った。
 彼女は、彼の言いたいことを察して
「それが何?」
と小さく尋ねた。
 彼は、役者のような大げさな身振りをつけ
「知りたいと思う。それは恋の始まり!」
と言った。
 彼女はどきりとしたが、冷たい調子で
「知って憎しみが生まれることもあるわよ?」
と突き放した。
「憎しみは愛の背中合わせの友ですよ? 簡単に入れ替わる。」
「意味がわからない。あんたは哲学者なのね。」
 ヴィダルはけらけら笑い
「婚礼の用意を始めました。お嬢さまは、母君譲りの花嫁衣装を持参なさったとか。すぐ虫干しなさらないとね。」
と片目を瞑った。
「勝手に決めて!」
 エレナの抗議には応えず、彼は
「ニーナ! ニーナ! お嬢さまの花嫁衣装を手入れしてくれよ!」
と扉の外に叫びかけた。



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