10.

 海へ出かける約束は、リオネルが葡萄酒の醸造に忙しく、なかなか果たせなかった。
 エレナは焦れ、彼の居間を訪ねることにした。
 ある日の午後、ニーナにその旨を伝えると
「今日は……リオネルさまにお客さまがあるから。」
とやんわり押しとどめられた。
 彼は今までの客は皆、彼女に紹介した。ニーナはそれをむしろ喜んでいた。いぶかしく思い
「どうして止めるの? いつもそんなことは言わないじゃない?」
と尋ねると
「エレナさまには関わりのないお客さまですよ。今も、これからもね。」
と渋い顔をした。

 一方、リオネルは来客の名前を聞いて、眉根を寄せ、舌打ちをした。
 従者も厄介だというような顔をした。
「いかがなさる? この期に及んで……」
「会わずに帰せる相手ではない。居間に通して、接待しておけ。」
「しかし……」
「ヴィダル。お前は知っているだろう? あの人の気性。」
 リオネルが深く嘆息すると、従者のヴィダルもため息をついた。
「仰せのままに。」
 退出するヴィダルの後ろ姿を眺め、リオネルはまたため息をついた。

 居間で待っていたのは、若い女の客だった。黒い髪で、莉蘭の花のような変わった色の瞳の、高雅な美貌の持ち主だった。身分の高い女であることが、所作の隅々に現れていた。それでも、苛々とした様子が滲んでいた。
 彼女は、入ってきたリオネルに駆け寄り、しがみついた。
 彼は彼女の肩を柔らかく押しやり
「はしたない振舞いはお止めなさい。」
と言って、長椅子に座ると、彼女にも座るように促した。
 彼女は窘められて、一瞬表情を曇らせたが、しゃんと顔を上げて、彼を見つめた。
 リオネルは努めて軽い調子で話しかけた。
「久しぶり、オクタヴィア。旦那さまを放って、こんな所に来ていていいのかな?」
 オクタヴィアは鼻で笑った。
「あの男は、わたくしの行動を規制する権利などありませんわ。」
「酷いことを言うね。優しいひとらしいじゃないか。」
「ええ。それだけが取り柄。……いえ、わたくしがキャメロンの国に暮らす理由をくれているのだから、それが一番の取り柄かしら。」
「またまた酷いことを。大事にしてくれる優しい夫。身分も申し分ない。君に相応しい。何が不満なのか、さっぱりわからない。」
「そんなこと……。わたくしに相応しいのはあなた。」
 彼はこっそり舌打ちした。何度もこんなやり取りをしてきたのだ。ため息交じりに
「いつまでも、私に関わっていてはいけないよ。」
と言うと、彼女は甘えた調子で
「……あなたは酷いわ。わたくしの気持ちなど百も承知でいらっしゃるのに、いつもするりとお逃げになる。今度は結婚などするとか。それも、お品の下った、カスティル=レニエのお家にはとても似合わぬ娘だとか……。そうまでして?」
と詰った。
「ああ。エレナを愛しているんだ。ずっと前から、見守って……花が開くのを待つようにね。彼女は、私に相応しく成長した。」
 彼女はぎらりと瞳を光らせた。そして、鋭く低く
「嘘よ。わたくしの方が相応しいに決まっています。」
と宣言した。
 彼は何度目かのため息をついた。
「何故、私に執着するのだ?」
「愛しているから。」
「どこを?」
「愛に理由がいるのかしら?」
 彼は顔をしかめた。何を言っても引き下がらないのはわかっていたが、邪険にはできない。
「……君のことは、美しく高貴な婦人として称賛したことはあるよ。でも、それだけだ。君を誤解させたのなら、謝罪しよう。すまなかった。……さあ、話は終わりだ。お帰り。」
 彼女は紫色の瞳を潤ませた。
「田舎娘などと結婚しないで。わたくしとして。」
「無理なことを。君は公爵の奥方じゃないか。田舎娘と言うなら、私とて田舎の一領主だよ。」
「田舎領主だなんて……。そうね、あなたのお父さまのサーシャさまも、同じことを言って、わたくしとの結婚をお断りになった。あなたも身分にこだわるの? 気になさらなくてもよろしいわ。わたくしは、あなたを公爵にも大公にでもして差し上げられる。あなたの頭にマラガの王冠を載せることだって、不可能ではないわ。」
「愚かな……。君の故国を混乱させるわけにはいかない。余計に無理な話だね。」
「でも……」
 リオネルは立ち上がり、オクタヴィアに手を差し出した。
「もう本当に話はない。お帰りなさい。」
 彼女はうなだれて彼の手を取り、立ち上がった。彼は握り締められるのを避けるように、するりと手を離した。
 彼女は悄然として、扉に向かったが、戸口で立ち止まった。
「リオネル、覚えておいてね。わたくしは諦めが悪いの。」
「良くない性質は改める必要があるね。」
「きっと、あなたを手に入れる。」
「では、早々に結婚してしまおう。君がすっかり諦めのつくようにね。」
 彼女は燃えるような目で彼を睨みつけた。
「……生きているだけで罪深い男! がんじがらめにして、焼き尽くしてやりたい。」
「君は私の死骸を抱きたいのかな? あいにく、私の屍もエレナのものだから。」
 彼女は引きつった表情のまま
「ごきげんよう、リオネル。」
と会釈すると、退出していった。

(まったく……俺が何をしたと言うんだよ! 妄執も大概にしてほしいね。俺の為にも、エレナの為にも。何より、オクタヴィアの為に……)
 リオネルは控えにいるヴィダルを呼ぼうと、扉を開けた。
 すると、そこにエレナが立っていた。じろじろと、彼を上から下まで眺めまわしていた。ヴィダルが彼女の後ろで、バツの悪そうな顔をしていた。
 彼は苦笑した。
(これは、思わぬ戦いが勃発するようだな。)



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