9.

 それからしばらくして、レニエから使者が訪ねてきた。
 立派な馬車を伴い、数人の騎士が護衛していた。ただの使者にしては大人数だ。村人は少しいぶかしんだが、財を惜しげもなく援助したレニエの伯爵だから、それだけのこしらえをするのだろうと考えた。
 感心と感謝と畏怖。村人は眩しそうに、彼らを遠巻きに見つめた。
 クルジェの館で、騎士とその家族は驚きとともに彼らを迎えた。
 騎士は様子を見にきたのだろうと軽く考えた。にこにこして
「道中、ご覧になられましたか? 皆、仕事に励んでいます。今年はダメでも、近い先に希望をつないでね。レニエの皆さまのおかげですよ。もっと隅々まで見ていただきたい。」
と言うと、一行は微笑んだ。
「じっくり見たいところだが、そのような暇はないのだ。」
 使者は騎士に手箱を渡した。
「我々の主、レニエの伯爵さまからの書状だ。」
 騎士は手渡された箱を開け、書状の封蝋を切った。彼は驚愕した。読むうちにみるみる彼の表情が曇り出した。
「これは……?」
「見ての通り。すぐに従わねばならん。」
「しかし……何の用意もできません。」
「用意など要らぬと仰せだ。今日のうちに出発する。」
 使者は涼しい顔で答える。騎士はますます渋い顔になった。
「それにしても……」
「案ずることなど、何もないぞ。我々がこうして整えて来たのだから、あなたは何もしなくてよい。」
 後ろに控えていた騎士の奥方が、彼の手元を覗き込んだ。彼女はあっと声を挙げ、エレナを上から下まで見た。
「何? お母さま。お父さまも……何が書いてあるの?」
 騎士は黙って書状をエレナに示した。
 そこには美しい文字で、しかしながら短い文言が書かれていた。
“クルジェの騎士。そなたの息女、エレナ嬢を私に嫁がせよ。”
 尊大な印象を与える調子である。
 紙の右下に、署名と紋章の押印があった。
“レニエの伯爵、リオネル・ドナシアン・カスティル=レニエ”
 エレナは目を見開き、使者を見つめた。
「異論は挟めませんよ。」
 彼女は使者を睨んだ。
「着るものくらいは持って行けるのでしょう?」
 その言葉はあっけなく退けられた。
「必要ありません。伯爵さまがご用意なさる。それに、申し上げたでしょう? 今日のうちに出ると。暇はありませんよ。」
「……髪を梳ることと、家族に別れを告げることくらいは許されるはずよ!」
 使者は苦笑し
「話が早くて助かりますな。どうぞ。ほんの一時だけです。」
と言った。

 エレナと家族は部屋に引き取った。
 父も母も、突然のことに驚き、嘆息するばかりだ。何一つ言い返さなかった両親が不甲斐なかったが、エレナには責められなかった。一介の騎士が伯爵に刃向うなど、考えられないことだった。
 彼女の心の中は、それを見込んで、上から命令を下すレニエの伯爵に対する憎悪でいっぱいだった。
「レニエの伯爵……どんな方なの?」
 父に尋ねたが、おぼつかない答えが返ってきた。
「知らないよ。私の仕える伯爵さまでさえ、お目通りは久しくしていないのに、他領の領主など……。少し前に、先代さまが亡くなられたということしか知らん。」
「……リオネル・ドナシアン。偉そうな名前! きっと嫌なやつに違いないわ。」
 エレナは足を踏み鳴らした。母親が慌てて
「でも、伯爵さまの奥方になるのは、あなたにとってはいいことよ。あれだけのことがおできになるのだもの。レニエは豊かなのよ。」
と慰めた。
「クルジェを援けたから私を差し出せと言うのね。花嫁を買うのに、貧乏な家ならば安くて済むというわけよ!」
 激怒するエレナを、父親も宥めにまわった。
「貧乏騎士の娘が、伯爵の奥方に望まれるなどないことだ。幸運だと思わねばならないよ。」
 父ですらそんなことを言うのかと呆れ、悔しかった。
「お母さまの言うように、豊かな領主だったら、結婚相手などいくらでもいるでしょうに。花嫁を買わねばならないくらい醜い男なのね。それはともかく……性格の悪いことは間違いないわ!」
 エレナの悪態もそこまでで、時のないこと。母は彼女の赤い髪を梳かし結い上げた。父はその様子を眺め、目を潤ませた。
 母は部屋を出ると、布包みを持って戻って来た。エレナに手渡し
「私の婚礼の時の衣装よ。あなたが憧れていたあれ。こんな風になるとは思いもしなかったけれど……これを着るといいわ。」
と言ってすすり泣いた。
 エレナは包みを少し開けて見た。古びて黄ばんだ花嫁衣裳。子供のころに思ったほど美しいとは思えなかったが、母の気持ちに目頭が熱くなった。
「ありがとう、お母さま。」
 親子三人は抱き締めあった。

 エレナは母の包みだけを持ち、馬車に乗り込んだ。
 館の前で、両親が打ちひしがれた様子で見送っていた。
 彼女は馬車の窓から首を出し、両親とクルジェの姿を目に焼き付けた。
 すると、ユーリを乗せた痩せた騾馬が走って来た。馬車馬の速い脚には追い付けず、どんどん遠くへ引き離されていく。
「ユーリ!」
 彼女は限界まで身体を窓から出して叫んだが、騾馬がとうとう立ち止まり、ユーリの姿も見えなくなった。
 彼女は唇を噛み、膝の上に拳を握り、涙を必死に堪えた。
(こんな別れをさせる冷血漢。リオネル・ドナシアン。見ていなさいよ。私は言いなりになどならない。絶対にね……)



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