戦いの終わり
8.
エレナは港街を出て、街道を辿った。キラナはずっと北の方向にある。金は勿論、交換する物すらない彼女は、ただ歩くしか方法がなかった。
しばらく街道を行くと、農村があった。村人は彼女を胡散臭そうな目で見た。話しかけようとすると、離れて行く。オクタヴィアの領地の方向へ正しく進んで
いるのかだけは知りたいと声を掛け続けて、やっと答えを得た。
食べる物を分けて欲しかったが、そこまでは話を聞いてくれなかった。
彼女はそのまま歩き続けた。
その辺りには、小さな森が点在していた。森の中を探すと、野いちごの類が見つかった。大して空腹を満たしてくれないが食べると、気持ちが確かになる。
夜は森の中で眠った。
どの村でも同じような扱いを受け、空腹に耐えられなくなった彼女は、村の畑から野菜を盗んだ。逃げ隠れ、土のついたままの野菜を夢中でむさぼった。
しかし、森のある場所は無くなり、村落もなくなり、荒野が広がるようになった。人と行きかうことも少なくなった。
マラガの強い陽光が彼女の体力を奪い、傷が痛んだ。乾いて固くなった道を歩くのは辛かった。
喉が渇いても、申し訳程度に流れている小川があるばかりだ。掬って飲むと、口の中にじゃりじゃりと砂が残った。
肌が真っ赤に焼け、ひりひりとする。身体中に疲れが溜まっていた。
「どこか人の住んでいるところはないの……?」
呟くと、すすり泣きが出た。
疲れ切った足を引きずり、とぼとぼと歩き続けた。
川の流れもなく、雨が降る時だけに流れるであろう小川の跡ばかりだった。それでも、泥水が水たまりに残っていると、彼女はそれを啜った。食べる物はもっ
と見つからず、砂まみれの乾いた草をむしって、口に入れた。
進む距離も僅かになり、灌木の陰でくったりと座り込むことが多くなった。陽炎の中に水が見えたが、もう彼女はそれが幻だと知っている。
(苦しめ、嘲笑うよう……)
恨めしい幻に疲れ、彼女は体力を奪う陽射しの少ない早朝や宵に歩くことにした。
そんなある日、夕闇の中に一団の人を見た。荷馬車が一つ。久しぶりに見る旅人に、エレナは涙が溢れそうだった。
気力を振り絞って駆け寄り、声を掛けた。振り向いた旅人の顔を見て、彼女は後ずさった。
彼の顔には沢山の出来物があり、膿み爛れていた。周りの者も皆同じようだった。陽避けの外套だと思ったものは、変貌した姿を隠すものだったのだ。
それはよく知られた病だった。それを患うと忌み嫌われ、村を追い出されて、同じ病を患う者ばかりの場所で、暮さねばならなかった。
一団はそうした場所へ向かう途中なのだろう。
エレナが話しかけた男は、何の感情もない目を向けて、彼女の次の言葉を待っている。
彼女は荷馬車を見た。いくつか麻袋が載っていた。食べ物もあった。
「あの……飲み水と、少しだけでいいから食べる物を分けて欲しいの。」
彼は仲間と顔を見合わせた。そして、水の入った革袋を差し出した。彼女は慌てて口をつけた。
「一気に飲むと良くない。」
男はそう注意し、荷馬車から食べ物を取り、彼女に渡した。
小さなチーズと大麦の粉だった。
「ゆっくり食え。喉が詰まるからな。」
彼女は黙って頷き、久しぶりのまともな食べ物を口にした。チーズは固く、大麦に咽たが、食べると力が戻ってきた。
一団は彼女には興味を示さず、黙々と夜営の準備をしている。
「一緒にいていい?」
彼女が尋ねると、彼らは黙って頷いた。
皆は外套を脱ぐこともなく、黙ったまま食事をし、火の周りに座っているばかりだ。話をすることもない。話しかけられる空気ではなかった。
悩まされていた空腹と乾きは癒えたが、もっと悩ましいのは正しい方向に進んでいるのかということだ。
彼女は意を決して、側にいた者に尋ねた。
「キラナはここから近い?」
話しかけられた者はびくりとし、驚いた顔を向けた。話しかけたのは女だった。最初に声を掛けた男よりも重篤な様子だった。
エレナは驚いたが、平静に努めて彼女を見つめた。ややあって、彼女の答えが返ってきた。
「近くはないけれど、遠くもないわ。」
その答えに、エレナは正しい方向を辿っているのだと安堵した。
「あなたたちは、何処に向かっているの?」
女は乾いた笑い声を挙げた。
「この病の者が行くところなど決まっている。“谷”だよ。」
「その“谷”はキラナに近いの?」
「いいや。キラナの向こう。」
エレナは同じ病でなくては受け入れてくれないのかと思ったが、尋ねてみた。
「キラナまで一緒にいていい?」
女はそれには答えなかった。他の者たちも一様に答えない。
承諾もなかったが、拒否もなかった。
翌日から、エレナは一団に加わった。誰も彼女に関心を向ける者はなかったが、食べる物や飲む物は分けてくれた。充分ではなかったが、有難かった。
荒野が途切れ、村が現れるようになった。一団は村の外で立ち止まり、一人が村に出た。村人たちは、彼らを早く立ち去らせたい為、すぐに食べ物や水を与え
た。
彼らは、そうして旅を続けているのだ。
やがて、城壁が見えてきた。
「キラナ。」
一人が立ち止まり、指差した。前に話しかけた女だとわかった。
「キラナには寄らないの?」
エレナの問いに、彼女は首を振った。
「お別れね。」
女は頷いただけだ。ちらりとエレナを見た目に寂しさがあった。
「今までありがとう。」
エレナはそう言って、女の肩をそっと叩いた。彼女は身を引いた。
「夜になったら、城へ行くといい。施しがあるよ。」
女は小さくそう言い、一団の中へ紛れた。
誰もがエレナに別れを告げることもなく、振り向くこともなかった。
彼らには、憐れみなどと単純な感情をかけることも憚られた。哀しみも恨みも何事も諦めきった一団に、エレナは心の中で別れを告げた。
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