7.

 ある夜、エレナの待っていた話が、ついに聞こえてきた。
 いつものように、船の入った忙しい夜の食堂でのことだった。
「王女さまが……」
という言葉が耳に入った。
 彼女は卓を拭きながら、聞こえた方向を探った。
 背後の隅にいる男たちが話していたのを察した。さっと目を向けると、彼らの側に片づけられていない卓があった。
 彼女はその卓に歩み寄り、彼らに背を向けて、できるだけゆっくりと片づけをした。
 男たちは彼女に目を向けることもなく、話を続けていた。彼女はほくそ笑み、すっかり話を聞いた。
 残念なことに、オクタヴィアは既にマラガに到着した上に、領地へ旅立ってしまったということだった。
 だが、彼女が“夫”を伴っていたことも、領地はキラナという名前であることも知ることができた。満足だった。

 充分だと立ち去ろうとしたエレナに、一人の男が酔眼を向けた。
「おい。いやに、もたもたしていやがるな。何だ? お前、ちょんの間か?」
 彼は笑って、彼女の尻を撫でた。
 彼女は手を払い、振り向いて睨みつけた。
 男たちは驚いて身を引いた。そして、口々に酷い言葉を投げつけた。
「何だ、この女! 汚ねえ!」
「酔いが醒めた。飯が不味くなる。あっちへ行けよ!」
 彼女は唇を噛み、皿をまとめた。
 酔客たちの遠慮のない視線を受けながら、彼女は早足に厨房へ向かった。
 すると、途中で別な客に腕を取られた。
「お前! 傷痕は酷いが……顔の造りはいいな!」
 男はぐいっと彼女を引き寄せ、じろじろ眺めまわした。
「皆、見ろよ! こいつ、結構美人だぞ。」
 皆の視線が彼女に向かったが、すぐにどっと笑い声が挙がった。
「おめえ、背中に目がついてんのかよ!」
「よく見ろよ! ……身体だって、抱き心地がいいぞ。」
 男は向きになって反論し、彼女の身体を抱き締めてまさぐり始めた。もがいているうちに、髪を覆っていた布が落ち、焼けて短くなった赤い髪が露わになっ た。
「変わった髪の色だな!」
 エレナは男を突き飛ばした。そして、はだけた胸元を掻き合わせ、店から走り出した。

(どうしよう? どうしよう? 髪を見られた……)
 エレナの特徴的な髪の色が、シビウにいることをオクタヴィアに知られる一因になった。
 エレナはそれを思い出して、身が震えた。
(あの時とは違うわ……。オクタヴィアは、私がどこかに売られたと思っているんだから……)
 そう宥めても、不安で仕方なかった。このままこの街にいるのは危険だと思った。
 リオネルの消息を知ったからには、ここにいる理由もないのだとも思った。
 彼女は、着のみ着のままの自分の姿を見下ろした。何の支度もなく旅することが不安だった。女一人の旅など危険極まりない上に、異国なのだ。
「……でも、私には何もないわ。」
 その呟きは、支度をするにも持っている物もなければ、買いそろえる金もないという意味だったが、口に出すと別な響きにも聞こえた。
「私、綺麗でも何でもないわ。」
 酒場の男たちは、彼女を化け物でも見るような目で見る。今日一人だけ変わった男がいたが、他は皆そうだった。酒場以外でもそうだった。笑えてきた。
「何を惜しんでいるのよ?」
 彼女は、数分前の自分を嗤った。
 そして、暗い通りに踏み出した。



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