2.

 リオネルは、遠くなりゆくキャメロンの岸を眺めた。優しい緑の森、なだらかな起伏の土地、柔らかな陽の光。
 そして、愛するレニエの風景を思い浮かべた。必ずしも豊かではないが、取り組む価値のある土地。遠くまで続く、整えられた葡萄畑。秋の実りと人々の笑顔。
 懐かしさが込み上げてきたが、嘆く気持ちはない。
 ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、低く呟いた。
「必ず戻る。」
 オクタヴィアが彼に歩み寄った。話をするつもりなのだろうと、彼は彼女に従って船室に入った。

 キャメロンの内乱は、西部の諸侯が先陣を切ったということだった。そこには、シビウやレニエも含まれる。
 オクタヴィアは、毎日のように訪ねてくる諸侯の遣いを応対していたのだ。そして、彼らは皆王と敵対する側だ。彼女は、誰も王に味方する者はいないのだと語った。
 確かに、前の内乱の時も、西部の諸侯は王に背いた。しかし、リオネルの父・サーシャがそうであったように、幾らか王の陣営にはせ参じた者もいたのだ。彼らは内乱後に、王の優遇を得た。
 その彼らですら王に背を向けたことが、リオネルには意外だった。
(それほど、王を疎んでいるのか? 暴虐・非道とまでは言えない王だが……? )
 彼は考え込んだ。オクタヴィアはその様子を楽しそうに眺めていた。
「不審なの?」
「そうだな。あの煌びやかな城と、寛大なご気性が気に入らないだけではないのだろう?」
 そう言うと、彼女は手を叩いて笑った。
「あなた、王に疎まれるはずよ! ここには王はいないわ。そんな嫌味な言い方をなさらなくてもいいのよ? ……あの城と理不尽な裁き、それだけでも充分なことよ。でも、今度のことはね……」
 彼女は言葉を切り、じっと彼の顔を窺った。勿体ぶった様子に、彼は苛立ったが、素振りに出すのは嫌だった。
「うん。それで?」
「教えてほしいの?」
 彼女は拗ねるような甘い声で尋ね、微笑んだ。
(どうせ言うくせに。言いたいくせに。いちいち面倒な……)
 彼は舌打ちを押し隠し、涼しい顔で
「別に。言いたくなければ、答えなくていい。」
と素っ気なく言った。
 途端に、彼女は表情を曇らせた。
「これはね……」
 彼女は声を顰めた。
「うん。」
 彼女は得意げな顔で、彼の耳に囁いた。
「ラタキヤの侯が謀ったことなの。」

 彼は驚きを隠しきれなかった。
「驚いた? やっと驚いたのね。」
 彼女はくすくす笑った。
「それはね……。侯がキャメロンの諸侯にあれこれ指図なさるなど、聞いたこともない。今までなかったことをなさったんだ。驚いたよ。」
 崇敬を集めるラタキヤの侯の依頼ならば、多くの領主が耳を貸すことは解る。だが、侯が何故そうしたのかは解らなかった。
 彼女は満足そうに、話を続けた。それは更に驚く内容だった。
「これは大きな戦になるわ。何しろ、母后さまもご領に戻られたのだから。騎士たちを召集なさっているそうよ。……王に、ご自分の息子に対する為にね!」
 彼は大きなため息をつき、頭を抱えた。
「ご心痛かしら?」
「……何故、侯はそんなことを?」
「辱めを受けたとお思いになったのよ。」
「何の辱め?」
「お血筋の姫君に対する辱めよ。我慢がならなかったのでしょうね。」
(そんなくだらんことで……! )
 彼は拳を握りしめた。
「あなたにも関係があることよ、リオネル。だって、その姫君とは、あなたのお母さまのことですもの。」
「何だって!」
 彼が驚くたびに、彼女はますます楽しそうにする。腹立たしかった。
「あなたのお母さま。アンガラードさまは、サーシャさまと下女の間に生まれたあなたの弟が、レニエの伯爵になるのをご覧になりたくなかったのよ。下賤な男が伯爵を名乗って到着する前に、ご自害なさったの。」
 そういうことがあれば、母はそうするだろうと想像がつく。彼には取り乱すような哀しみはなかったが、母の死は惜しかった。
「俺の弟のことを、下賤などと貶しめるのは止めてくれないか?」
「あら……ごめんなさい。でも、アンガラードさまのお気持ちは、わたくしには痛いほど解るわ。ラタキヤの侯のお気持ちもね。」
「そう? 俺にはさっぱり解らんね。その程度のことで、国を危うくするなど。乱心したとしか思えん。」
「そうかしら? でもね、これはあなたにも良い目があるということよ。大体、些細なことで、あなたを処刑しようとした王よ? 王自身が、いずれ国を危うくする。」
 彼は黙り込んだ。彼女の言う通り、王のやり方では反発する諸侯が出てくるだろうと、彼も案じていたのだ。

「心配?」
 オクタヴィアの声に、リオネルは我に返った。
「心配ではない方がいい?」
「素直じゃない方ね。でも、そうね。心配していない方がいいわ。」
「マラガに行くから、キャメロンのことはどうでもいいというわけにはいかないね。」
「……嘘。そんなこと、大して心配していないでしょう?」
「レニエのことは心配しているよ?」
「いいえ。あなたが心配しているのは、クルジェのエレナのこと。そうでしょう?」
「……だったら?」
 オクタヴィアは急に笑い出した。リオネルはじっと様子を見つめた。
 彼女は高笑いすると
「マラガまで、ゆっくりなさっているといいわ。あなたのお好きな海をたっぷりご覧になれば、憂さも晴れるでしょう。」
と言った。
「ああ、そうするよ。」
 彼は鎖をじゃらじゃら引きずり、一人甲板に出た。



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