13.

 リオネルは外出すると毎回、灰汁の作業場に立ち寄った。
 作業場の者は、リオネルと親しくなることがなかった。作業上の最低限のことだけを話した。貧民以外の者が、それも領主に近い者が共に働くことに戸惑っているようだった。

 タイランは何度か止めるように諌めたが聞き入れられず、諦めて従った。作業に参加することもない彼にとって、その間は木陰で休息する時間になった。
 それを耳にしたオクタヴィアは眉をひそめた。
「身体を動かして働いているのが、気に入ったんだ。」
 リオネルはいかにも楽しそうに言った。彼女は渋い顔をしたが、それ以上は言わなかった。

 リオネルは、木陰で居眠りをしているタイランを一瞥した。そして、エレナからやや離れて座った。
 エレナはリオネルを見ることもなく、膝を抱えて俯いている。
「何時知った?」
 彼は小声で尋ねた。彼女は俯いたまま
「ずいぶん前。」
と答えた。
 彼女に尋ねたいことがありすぎて、彼は言葉がなかなか出なかった。
 少しの間、沈黙があった。彼女が声を顰めて尋ねた。
「……幸せに暮らしている……というわけではないの?」
「俺の幸せが何か、知っているくせに。」
 彼女は小さく笑った。彼は腕を伸ばし、彼女の腰に触れた。彼女は彼の手を撫でた。
 彼は振り向いてタイランを窺った。さっきと変わらず眠っているようだ。
「あれ。あの騎士を何とかせねばならない。」
「ええ。」
「……なかなか難しい。」
 彼女もちらりとタイランを見やった。
「そうね。」
 また二人ともに黙りこんだ。
「馬と金……。金はどうにか……」
「逃げるの?」
「ああ。お前の塒はどこだ?」
 エレナは、自分の寄っている小屋の場所を手短に教えた。
「親しくしている者はいるか?」
 彼女は首を振った。
 二人はお互いの瞳の奥を見つめ合った。
 作業の再開を告げる声が聞こえると、エレナは黙って立ち去った。

 陽が傾き、作業が終了した。
「タイラン、城へ帰る。」
 眠っていたタイランは、伸びをして起き上がった。
 城への帰途、リオネルは川の側で馬を止めた。
「暑い。あそこで身体を洗いたいな。」
 そう言うと、タイランは夕陽を眺め
「夕闇が下りてきますよ。城に帰ってから湯あみなさってはどうです?」
と応えた。
「湯を張るのに、ずい分待たねばならんではないか。汗だくで気持ちが悪いんだよ。」
 リオネルは困った顔をして、タイランに訴えかけた。
「仕方がないですね……」
 タイランは馬を繋いだ。
 リオネルは着ているものを脱ぎ、川に入った。身体についた灰が流れていく。
 服についた灰を振り落し、川辺に座って身体を乾かした。
 夕闇が落ち、タイランは松明に火を灯した。
 リオネルが座ったきり、帰ろうと言わないのを不審に思ったタイランが側へ歩み寄った。リオネルは、彼に座るように促した。難しい話が始まることを予想して、彼の表情には緊張が現れた。
「忠義者、タイラン。そなたは誰に忠義なのかな? キラナの女侯? マラガの王国?」
「どちらもでございます……」
「嘘が下手だね。マラガの騎士ならば、王弟さまの企てに知らぬふりをしていてはいけない。」
 タイランの顔が歪んだ。
「オクタヴィアが男の子を産めば、太子はもとより王も暗殺するおつもりだぞ。」
「証拠がございません。」
「これという証拠はないな、確かに。だが、獄死したはずのレニエの伯爵がここにいることはどうなのだ? 何か企んでいるからだろう? 少なくとも、キャメロンの王国を乱そうとしたことは確かだ。……アハマドが口を割るかもしれん。」
「殿さまはお逃げになるおつもりですか?」
「ああ。」
 タイランは逡巡し、剣を抜いた。
「ここで、殿さまを斬れば、王弟さまの企みは水泡に帰します。何も無かったことになる。マラガの王国は波立つことなく……」
「オクタヴィアから峻烈な裁きを受けるだろう。」
 タイランは苦しげに
「覚悟の上です。マラガの為ならば……」
と呟いた。
 その言葉が終るやいなや、リオネルは怒鳴りあげた。
「愚か者! 俺を殺しても、王弟さまの孫息子の父親が変わるだけだ。マラガの為を思うなら、王の許へ行け!」
 タイランはびくりと身を震わせ、怯えた目を向けた。そして、落ち着きなく視線を彷徨わせた。
(タイラン、考え込むことなどないぞ。早く決断するのだ……)
 リオネルは内心とは裏腹に落ち着いた風を装い、タイランを窺った。
 やがて、タイランはじっとリオネルを見つめ、声を顰めた。
「殿さま……王に書状を書いていただけませんか?」
 リオネルは安堵し、ほっと息をついた。



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