10.

 夏になった。リオネルにとって、マラガの太陽はますます忌まわしいものになった。乾ききった土が、海風に舞い上がる。埃っぽく、日中は外に出る気にもならない。
 窓から紺碧の海を眺めるばかりだった。見下ろした海は凪いでおり、城の影が濃く黒く落ちていた。

 キャメロンの内乱について尋ねると、タイランは
「キャメロンなど、殿さまには関わりのないことでしょうに。」
と笑った。悪気はなく、思ったことを言っただけのようだった。
 彼は知りうることを教えた。
 諸侯も王族も入り乱れて、覇を競い合い、王どころか王家が王家でいられるのかさえ定かではない状況だという。リオネルは暗澹たる思いだった。
(誰が王になろうと……いや、王家は王家でいてもらわねばならん……)
 戦によって王朝が交替することは望ましくないと、彼は考えた。そのような前例が出来れば、繰り返されることになりかねない。
(どうしたら……? )
 考え込んでいると、タイランが
「気になりますか? ……故郷のことは気になりますわな。」
と言った。
「キャメロンでは死んだことになっているし、マラガを故郷とせねばならないのだがね。」
 リオネルが苦笑すると、タイランは僅かに眉を寄せた。
「そなたらは、俺のことをどう思っているのだ?」
「マラガの王女にしてキラナの女侯、オクタヴィアさまの夫。」
「……やがて、マラガの太子の父になるかもしれない。王弟さまのご計画が具現化すればね。」
 リオネルがにやりと笑うと、タイランの頬がぴくりと引き攣った。彼は王弟がそこまで企んでいるとは認めたくはなかったが、やりかねないとも知っていた。
「王弟さまのお考えがどこまで壮大なものか、凡人には測れませんよ。」
 表情に隠しきれない苦々しさがあった。タイランは思わず吐いた己の言葉の意味に気づいて、はっと息を呑んだ。
 リオネルはタイランの側に歩み寄ると、肩を叩いて微笑みかけた。
「あまり難しいことは考えない方がいいね。暑いからと、屋内に引きこもっているのがいけないのかもしれない。ぐだぐだと考えてしまう。」
 タイランは苦笑し
「宵になれば、少々涼しいでしょう。辺りを散策してはどうですか?」
と勧めた。声色も明るくなっていた。
「そうだね。夕餉が済んだら出てみよう。勿論、そなたが供をしてくれるのだろう?」
「ええ。」

 陽が落ちようとしていた。陸風が吹き始めると、少しだけ過ごしやすくなる。リオネルはタイランをつれて、庭園に出た。月の細い夜で、篝火の届く辺りまでしか散策はできなかった。
 庭園の腰掛に座り、海を眺めていると気が晴れた。
 城は暗闇に沈み始めた。いくつかの窓辺の灯りが点った。厨房は片づけに忙しいのだろう、勝手口からの人の出入りが盛んだった。
 リオネルは、ぼんやりと料理人の動きを眺めた。
 すると、大きな籠を引きずった食材管理人が現れた。食材の屑や残飯などを運んでいるのだ。厨房の側の柵に、貧民たちが待ち構えているのが見えた。
 皆一様に汚い姿だったが、その中でも際立ってみすぼらしい者がいた。女だった。群がる貧民に弾き飛ばされている。他の者が弾かれても前に出ようとするのと違って、女は皆の後ろで施しの様子を眺めていた。
(遠慮深い乞食もいるのか。)
 リオネルは小さく笑い、柵に近寄った。
 厨士は、彼の来るのに驚いた。
「殿さま、いかがなさいました? このような所にお出ましとは!」
「夕涼みだよ。そなた、皆に行き渡るように施しているか? 不公平はいかんぞ。ほら! 後ろのあの女。一片も手にしておらん。」
「どの女です?」
 リオネルは女の姿を探し、手招きした。
「そこの女。お前にも施すから、ここへ参れ。」
 貧民たちが渋々といった様子で道を開けた。彼女にも分け前が当たるだろうと、彼は踵を返した。
「酷いな。火傷か?」
 厨士の声を聞いて、彼はちらりと振り返った。
 篝火に照らされた燃えるような赤い髪。罰を受けた私娼のように短い髪だったが、忘れもしない髪の色だ。
 彼は柵の側に戻った。
 女は柵の間から手を出し、肉汁の染みた敷きパンを受け取っていた。若い女だ。汚れた痩せた身体で、粗末な服を着ている。顔と腕の火傷痕が見えた。
 彼は自嘲した。
(愚かなことを思った。エレナのわけがない……)
 厨士が女に
「殿さまにお礼を言えよ。特別にお情けを掛けてくださったのだからな。」
と言った。
 女はリオネルをじっと見つめた。緑色の瞳がきらりと光った。
「ありがとう。お殿さま。」
 彼は籠から素早く肉の切れ端を掴み取った。
「これも持って行け。」
 彼は、柵の間から差し出された彼女に肉を渡し、手をぎゅっと握った。彼女も握り返した。
 二人は僅かの間、視線を交わした。するりと手を離すと、彼女は早足に去った。

 リオネルは篝火に背を向け、タイランに表情を見られないように、海原を向いて立った。
 赤い髪を見て、もしやと思った。格好を見て、似ても似つかないと思った。
 しかし、声は間違いなく愛しんだエレナのものだった。何より、交わした視線と握り合った手が雄弁に語っていた。
“リオネル・ドナシアン。やっと逢えたわ。”
「すまない……」
 彼は海に向かって呟き、こっそり目許を拭った。

 リオネルは、怪しまれない程度に日を開けて、施しをしているところに出た。側に寄ることはしなかったが、いつもエレナを認めた。
 エレナも、すぐに彼に気づいた。



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