8.

 それからすぐに、レニエの男たちは働き始めた。
 放置された遺骸を火葬にし、中庭を清めると言って、荷馬車の樽を開けた。芳香が一気に立ち込めた。
「それは?」
 エレナが尋ねると
「葡萄酒だよ。死人の横たわっていたところは、これで洗う。」
と何でもないように答えた。
 葡萄酒をそんな用途に使うなど聞いたことがなかった。レニエの葡萄酒は有名だった。貴重な物だと彼女は思っていた。
「そんなことには使えないわ。」
 彼女は眉をひそめたが
「葡萄酒と言っても、酢にするやつだよ。遠慮しなくていい。」
と片目を瞑られた。
「なあんだ。後から法外な請求をされるのかと、どきどきしたわ。でも、酢にするやつでも対価は要るわ。私、あんたたちの面倒を見る。」
 エレナが苦笑すると、レニエの男たちは愉快そうに笑った。
 クルジェの領民は打ちひしがれていたが、率先してレニエの男たちの世話をするエレナの姿を見、汗と泥に汚れて働く様子を見て、一緒に働き出した。

 堀を埋めた土砂を取り除き、埋もれた村の整地を計ると、レニエの者は崩れた山肌を階段状するように指示した。
 そして、麻袋にいくつもあった団栗を差し出し、芽吹いたら育てて、植林するように教えた。
 皆が
「どうしてレニエの者は、いろいろ知識があるんだい? ……悪いけど、あんたらは学者や技師には見えないよ。農夫か猟師だろ?」
と不思議がると、彼らは
「レニエの土地は厳しい。こんな惨状はさすがに少ないが、いくらでも似たようなことがあったのさ。その度に、俺らは工夫してきた。じいさま達の知恵を忘れずにいるだけだよ。」
と答えた。誇らしげだった。
 誰もが感心した。
 また、一つまみの土くれを口に入れて味わうと
「こんな土で小麦を育てようなんて、百年早いよ!」
と、げらげら笑った。
 クルジェの村人が不愉快そうな顔をすると、彼らは苦笑いして
「地味に合った作物を育てろってことさ。ソバだな。燕麦でもいい。」
と言った。
「ソバはともかく、燕麦なんか……馬の餌じゃないか!」
 すると、また大笑いして
「馬鹿か、お前ら! 燕麦はまあ……食うなら食って、後は畑に鋤き込むんだよ。地味が良くなる。土が整ったら、次はライ麦か大麦だな。クルジェは大麦が合っているかもしれん。そうしろよ。」
と噛んで含めるように教えた。
 村人は不満そうだ。小麦が一番の収入になるからだ。だが、世話になっているから、面と向かってレニエの者に文句を言える者はいなかった。

 その様子を見て、エレナが代わりに
「ライ麦はいいけど、大麦? 麦酒でも作れと言うの?」
と尋ねると、彼らは
「麦酒では腹はふくれないよ、嬢さま。」
とにやりと笑った。
 どういうつもりかと先を促す視線を向けると
「……売るのさ!」
と自慢げに答えた。
「……どこに?」
 誰かが尋ねると、レニエの男たちは大笑いした。
「あんたらは何も考えたことがないのだねぇ。……キャメロンの北、平原にいる移牧の民は大麦を食うんだよ。それに……」
 彼らは含み笑いをし、小声で密談めかして囁いた。
「隣国のラドセイスの草原の蛮族。あいつらは小麦より大麦が好きなんだ。高値で買い取るだろうよ。」
 エレナもクルジェの領民も、あっと驚いた。ラドセイスの国とは、交戦状態にはないが、さほど友好的でもない。ラドセイスの草原にいる騎馬の部族とは、更に友好的ではない。
 突然に国境を犯し、略奪しては風のように去っていく好戦的な彼らを、キャメロンの人間は恐れ、忌み嫌っていた。
 キャメロンの奥深くに位置するクルジェの土地が犯されることはなかったが、噂は独り歩きして伝わっていた。
 そんな者と取引をすることを考える者はいなかった。そもそも、取引のきっかけを作る方法もわからなかった。正当な取引に応じる相手だとも思えなかった。
 レニエの男たちは再び想像もしなかったことを答えた。
「陸路ではラドセイスに運ぶのは難しいし、途中で役人に見つかったら没収だよ。海だよ、海。マラガの商人にこっそり売るんだ。後はどうなろうが、お前らには知ったことじゃないだろ? マラガの商人が自分の国で売ろうが、ラドセイスの草原で売ろうが、関係ない。」
「マラガの商人なんて……」
 外国の商人など、貧しいクルジェに来ることはない。誰も見たこともなかった。
「俺たちの殿さまは、マラガの商人を幾人も知っているぞ。話をすればいい。そして、マラガの商人は、ラドセイスの草原の大族長とはずぶずぶだってね。草原の街、ラザックシュタールはマラガの商人でいっぱいだそうだよ。」
「まあ……それもこれも、大麦が実るようになってからの話さ。でも、うまくいけば大儲けだ。」
 愉快そうに笑うレニエの男たちの話は、クルジェの領民の気持ちを上げた。きつい労働にも、自然と頑張れるようになった。

 エレナは感嘆しきりだった。クルジェだけの小さな世界しか知らなかった彼女には、地名すらお伽話の中の存在だった。
 マラガ、ラドセイス、ラザックシュタール。思い描くこともなかったおぼろげな遠い単語を、レニエの者は当たり前に口にする。
 やがて、レニエという地名ですら、縁薄い考えたこともなかったものだったと彼女は気づいた。
 今までにはなかった、視界の開ける不思議な感覚が押し寄せてきた。それは恐ろしいのか、嬉しいのかはわからなかったが、わくわくする興奮だった。

 数か月後、作業の目途がつくと、レニエの者はこれからすべきことをクルジェの者に教えて、故郷へ帰る準備を始めた。
 別れ際、彼らはエレナに
「嬢さま、あんたはクルジェのやつらとは少し違うようだ。あんたは不運に俯くこともしなかった。物怖じもしないね。」
と言った。
 そして
「あんたには俺らと同じ心がある。くじけない意志がね! ……間違ってクルジェに生まれたレニエの姉妹。」
と囁き、彼女を抱き締めた。
 名残惜しそうに何度も振り向き、笑顔で手を振る彼らに、エレナは大声で
「さようなら! ありがとう!」
と叫びかけた。



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