6.
 三人は船に乗り、ノルマンディーへと向かった。
 ブリテン島を出てしばらくは穏やかだった海が、ノルマンディーを目の前にして、嵐に荒れ始めた。
 船は傷み、どうにもこうにも舵が利かない。
 船乗りたちも、三人も、皆が神に祈った。主イエス・キリストに取り成ししてくれと聖母マリアに願い請うた。
 一向に嵐が止まないのに、とうとう楯持ちの若者が叫んだ。
「殿。これはその婦人を乗せているからに違いありません。
 立派な奥方がおありなのに、他にもう一人の婦人を愛するなどと、神の掟に背くことをしたからです。
 正義にも名誉にも背を向けられるのですか?
 その婦人を船からお落としなさい。
 このままでは、陸にたどり着けないでしょう。」
 エティエンヌは驚くブロドウェンを抱き締め、若者を罵った。
「この臆病者が!
 この裏切り者が!
 口を慎め!
 この人がいなければ、お前を海に放り出しているところだ!」
 恋人が故国で妻を娶っていたなど、思いも寄らなかったブロドウェンは青ざめ、気を失った。
 エティエンヌは彼女をかき抱き、船乗りを励まし、あれこれと指示をした。
 どうにか陸にたどり着き、腕の中のブロドウェンを見ると、既に息絶えていた。

 王女の名を呼び、涙にくれ、自分もその場で死に絶えたいと思ったが、彼女を葬らなくてはならないと思い直した。
 どこに埋葬するのが相応しいか、供と相談した。
 彼は自分の領地の森の中に、優れた僧が隠遁生活をしているのを思い出した。
 親しく付き合っていたから、無下にはしないだろうと思い至った。
 そして、領地を割き、財産を寄進して、修道院を建て、徳の高い修道士たちを集め、王女のために祈らせようと考えた。
「私との恋がなければ、身の上に相応しく、女王となり王妃となり生きたであろう。
 私と巡り合ったのは、この方にとって、不幸なことだった。
 これから後、私が武人として俗世に生きることは叶わない。神はこの罪をお許しにならないだろう。
 この方を葬ったら、私は修道の誓いを立て、この方の墓の側に住むことにしよう。」

 ところが、隠者の住む礼拝堂にはもう誰もいなかった。
 彼が海を渡っている間に、世を去っていたのだ。
 隠者の墓を前に、彼は力を落とし、改めて悔恨の涙を流した。
 従者は墓を掘ろうと言った。
「いや。今は神にお預けして、有徳の者の助言を乞うて、この方のために、この地が神の祝福を受けられるようにはかりたい。」
 そう言って、彼は王女に口づけして、祭壇に安置すると、礼拝堂を出た。

 館に帰ると、ブランシュは喜びにむせび泣いた。
 彼が疲労困憊していると言うと、心を込めて、あれこれと世話を焼いた。
 しかし、一向に彼は沈んだままで、優しい言葉ひとつかけることもなかった。

 翌日には、朝のミサに預かると、エティエンヌはすぐにひとりで出かけた。
 森の礼拝堂には、ブロドウェンが安置されている。
 死んだとは思えない姿に、彼はすすり泣き、彼女の魂のために祈りをささげて、館に帰った。
 彼が供もなく出かけるのが毎日続くのに及んで、ブランシュはいぶかしく思った。
 彼女は召使いのひとりに、多くの褒美を約束して、こう言った。
「殿がミサの後、どこへ出かけるのか知りたいのです。
 こっそり後をつけて、しっかり見届けてきてください。
 見たこと聞いたことを、私にすべて教えてください。」
 
 召使いはエティエンヌの後を追い、彼が礼拝堂ですすり泣く声を聞いた。
 ブランシュにそれを伝えると、彼女は考え込んだ。
「殿は、公の宮廷に伺候するために出かけているのではないのですね。
 おかしなことです。
 確かに、殿は礼拝堂に住まいする老僧を敬い、親しく語り合うことを楽しみにしておられました。
 しかし、老僧のために、毎日毎日、泣き声を挙げるとは思えません。
 礼拝堂の中に何があるのか、細かに調べてみることにしましょう。」

 ある日の午後、夫が宮廷に伺候するというので、奥方は召使いと礼拝堂に出かけた。
 そして、祭壇のブロドウェンを見出した。
 骸に通常あるような、あの恐ろしい腐敗の様子はなく、死んでいるとは見えなかった。
 ブランシュは黙り込んだ。長い間、見下ろしていた。
 そして、召使いを側近く寄せると、言った。
「このご婦人をご覧なさい。何と美しく、気高いお姿でしょう。
 殿はきっと、この方を偲んで泣いていたのですね。
 殿の恋人なのでしょう…。
 こんな素晴らしい方を亡くされては、あの沈みようも無理はありません。
 私もこの方の死を悼み、憐れみます。」
 ブランシュは嘆いた。それはブロドウェンの死を嘆いたのか、夫に裏切られたのを嘆いたのか。
 召使いには推し量れなかった。

 ブランシュの涙がブロドウェンの頬に落ちた。
 しばらくの間があり、ブロドウェンの瞼がゆっくり開いた。
 何の奇蹟かと驚いて目を見張っていると、彼女は言葉を発した。
「神さま。どうしたことでしょう?
 私のいるのはブリテン島でしょうか?
 あの方のお生まれになったノルマンディーでしょうか?」
 ブランシュは神の御名を呟き、ブロドウェンに身の上を尋ねた。
「私はブリテンのある王の娘です。
 父王の許にあったエティエンヌという騎士に恋をし、彼に連れられてここに至ったのです。
 その騎士さまは私を欺かれました。奥方さまがおありなのに、それは一切告げず、素振りにも見せませんでした。
 それを図らずも耳にしてから今まで、どうしていたのかわからないのです。
 この地に至った様子も、何もかも…。
 騎士さまは、私をここへ打ち捨てて去られたのですね。卑劣な方!
 あんな男を信じるなど、何と愚かなことをしたのでしょう。」
 ブロドウェンの言うのに、ブランシュは答えた。
「王女さま。その騎士は、あなたを見捨てたのではありません。
 不思議な縁に驚かずにはいられませんが、私はエティエンヌの妻なのです。
 彼は大変なうち沈みようで、毎朝ミサに預かった後、ここへ赴いては泣き叫んでおりました。
 毎日あなたを訪れては、ご様子を見つめていたのでしょう。
 私は、彼が帰ってこの方、少しも喜びもせず、楽しみもせずいるのをいぶかしく思い、こっそり探らせたのです。
 それで、こうしてあなたにお会いすることになりました。
 お目覚めになられたのは嬉しいことです。
 あなたを恋人の許にお連れいたしましょう。
 …私は修道女の墨染めの衣をつけることに決めました。」

 ブランシュはブロドウェンを慰め、館に連れ戻った。
 召使いにエティエンヌを探しに行かせると、ほどなく戻って来た。
 王女が自らの足で立っているのに、エティエンヌは驚いたと共に、喜びが湧き起って来た。
 しかし、奥方に罪悪感を持った。手放しで喜ぶことはできなかった。
 奥方は彼に暇乞いを告げた。
「私は尼僧になり、神にお仕えしようと思います。
 二人の妻を持つなど、体裁が悪く、邪悪なことです。神の教えに背くことでもあります。
 叶うことならば、殿の御領を少し割いて、私に頂戴したいと思います。
 そこに尼僧院を建てたいのです。
 それを待ってから、あなたは王女さまを娶られるとよろしいでしょう。大層恋しく想って おられるようですから。
 どうぞ、よしなに。」
 王女が言った。
「それはなりません。
 そうするならば、私も共にお連れください。
 尼僧院で奥方さまの妹として、一緒に神に祈りをささげたいのです。
 二人ともに恋しく想う方が神に許されるように、心を尽くしたいと思います。」

 エティエンヌは二人の願いを受け入れて、領地をたくさん割いて、立派な尼僧院を建てた。
 財産を半ばなげうち、彼女らが困らぬように、入用の品を整えさせた。
 二人の女は、全能の神に身を奉げ仕えた。厚い信仰の許に、善行を重ね、悔い改めた。
 恋したエティエンヌに、神の許しと慈悲があるようにと祈り続けた。
 彼は事あるごとに、二人に文を遣わした。
“ともに元気でいるか?様子はどうか?”

 長い間、エティエンヌは尼僧院と修道会を守るために、厚い寄進を続けた。
 また、自らも身を正しく持ち、神を敬い、慎み深く暮らした。
 やがて、人生の用意が整い、領地の行く末が整うと、ためらうことなく、自分も修道の誓いをたてた。

 三人ともが、神に仕えることになった。
 そして、自分ではなく、相手のために祈った。
 
 “誰が”、神の恩寵を得られたのか?
 “誰か”、神の恩寵を得られたのか?



 二輪の白い花も、一人の殉教者も、すべては人の子の名づけたこと。
 神の前には、誰もが等しく名もなき一人の人間。

                    おしまい

註   エティエンヌ:殉教者という意味のあるフランスの名前。
     ブランシュ:白いという意味のあるフランスの名前。
     ブロドウェン:白い花という意味のあるケルトの名前。
   ※ “姦淫することなかれ”。十戒のひとつ。想像するだけでも姦淫です。



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