18.

 婚礼とそれに伴う宴の間は毅然としていたソラヤだったが、ひとがはけると不安になってきた。
(あのおかしな男と二人きりになるなど……)
 ぶるっと身震いが出た。
(いやいや、私の夫はあの男でよいのだ。私が導いてやらねば何をしでかすか……放ってはおけん……。ま、愛していると思う。)
 彼女自身、この結婚に疑問も後悔もない。だが、従う気にはどうしてもならなかった。
 思い悩んでも、逃げ出すわけにもいかない。
(ええい!怖気づくなど、私らしくもない!)

 ソラヤが覚悟を決める前に、ローラントが入って来た。
 彼女はぎらりと睨んだ。
 彼は僅かな間立ち止まったが、睨みつける彼女の横を素通りした。
 彼女が気を抜きかけた瞬間だった。後ろから抱き締められた。
「後ろを取るなど、卑怯だぞ!」
 彼女は身を捩って抗った。彼は抱き留め
「相対すると、また蹴られるからな。」
と笑った。
 彼女は黙って肘を彼の鳩尾に打ちつけた。
 彼はうっと唸ったが彼女の腕を取り、胸元に引き寄せた。
 彼女はすかさず殴りつけた。
 この期に及んで、そこまでするとは予想外である。彼は唖然と彼女を見つめた。
「どうした?ローラント・セシルセン!臆したか!」
 すると、彼はにっと笑って
「ツェツィルセンだよ。」
と訂正した。そして、彼女を寝台に放り投げた。
 ソラヤは、押さえつけようとするローラントの股座を蹴り上げ、髪を掴んで引き倒した。
 馬乗りになり
「どうした?どうした?お前の武勇はその程度か!ローラント・ツェツィルセン。くそっ!言いにくい名前だな!」
と言いながら殴った。
 彼は殴り返しこそしなかったが、目の色を変えた。
「口の減らない女だ!」
 彼は向かってくる拳を取ると、手首を捻り上げ、体勢を入れ替えた。

 二人は上になり下になり掴み合った。
 とうとう控えから声がかかった。
「どうかなさいましたか?」
 心配のあまり声をかけずにいられないほど、騒がしかったのだ。
 ローラントは
「控えよ!」
と大声で叫び返した。
 そして、ソラヤを押さえつけ、寝衣の襟に手をかけた。
 彼女は暴れまわり、先程とは比べものにならない大声で彼を罵り始めた。
 控えの近習は何事かと思い、細く扉を開けた。
 ローラントは枕を投げつけた。
 慌てて扉が閉まった。
 彼は体重をかけて暴れる彼女を押さえ込んだ。
「ソラヤ!ソラヤよ!我々は夫婦になったのではなかったか?」
「そうだよ。頭は確かか?つい先程の婚礼をもう忘れたか!」
 彼女は荒い息を吐きながら睨み、まだ暴れようとする。
 彼は溜息をついた。
「これは夫婦の新床ではない。」
 すると、すかさず怒鳴り声が返ってくる。
「初めて結婚したくせに、お前が新床について語るな!」
「では、お前が語ってみよ。これはどういう状況なのだ?」
「これは……お前が私を、畏れ多くもこの私を、手籠めにしようとしているところだ。」
 彼は緑色の瞳をぎらりと光らせ
「手籠めどころか……これは格闘だ!」
と大声を挙げた。

 ローラントは長い溜息をつき、ソラヤの上から身を引いた。
 寝台に仰向けになった彼女を見下ろし、立ち尽くした。困った顔をしていた。
 彼女は途端に胸が痛んだ。だが、歩み寄るのは癪に障る。黙ったままでいた。
 彼女にとっては気まずい間が流れた。
 彼がぽつりと
「……どうしたらいい?」
と言った。
「どうって……」
「お前のことを愛しているのに……やっと結婚できたのに……お前は俺を嫌がる。どうしたらよいのだ?」
 途方にくれ、心細そうな顔だった。ひどく幼い感じがした。
「……男が女にすることをすればいい。」
 彼女はそう言って、目を閉じた。
 しかし、待てども待てども、近寄って来る気配がない。
 目を開けると、不思議そうな顔で見下ろしている。
 何も言わない。
 焦れた彼女は
「何をしている?早くせんか。お前、どうすればいいか知らんとか、間抜けたことを言うつもりではあるまいな?知っているはずだ!」
と怒鳴った。
「知ってはいるのだが……」
「なら、問題ないではないか。私は知らんのだから、お前が教えろ。」
 彼は眉根を寄せて、黙り込んだ。
「どうした?したくないのか?よもや、この私を腕にして、それはないだろう。」
 彼はますます顰め面になった。
「何とか言え!」
「で、ソラヤよ、お前はどうなのだ!」
 彼女が怯むような怒声だった。だが、彼女はそれをおくびに出すのも嫌な性質である。
「私が欲すると思うか!……でも、お前なら……」
 前半部は勇ましく始めたが、後半部は言うつもりがなかった。彼女は慌てて口を噤んだ。
 彼は寝台に歩み寄り
「俺なら?」
と微笑んだ。
「何でもないぞ。気にするな。」
と彼女は答えた。
 彼は寝台に上がり、抱き寄せた。
「気になる。」
 彼女はぎっと睨んでから、そっぽを向き吐き捨てるように言った。
「お前ならいい。」

 やっと始められた枕事だったが、ローラントが何かする度にソラヤは文句を言った。
 脱がせれば
「私だけを脱がすな。お前も脱げ!」
と言い、ちらっとでも裸の姿を見れば
「無礼者!見るな!」
と言う。
 肌を合わせている間中
「何をする!無礼な!」
だの
「触るな!」
だの言った。
 やっと結ばれたと思ったら
「重い!もっと気を使え!」
と叫び
「この下手くそが!」
と罵り
「もはやそれまでか!ローラント・ツェツィルセン!」
だの言って、彼を笑わせた。

 始終不満そうだったのに、ソラヤは
「悪くない。なかなか楽しかったぞ。満足である。今晩はもうよい。……だが、明日もまたしろよ。必ずだぞ。わかったな?」
と言った。
 ローラントは溜息まじりに窘めた。
「その言葉……改めたらどうか?」
 彼女は鼻を鳴らし
「おやすみなさいませ。殿。」
と憎々しげに言った。
 だが直後に彼の頬に指を伸ばし、微笑んだ。
「笑窪がある……」
 そう言って、彼に抱きついて目を閉じた。
 彼女は直ぐに寝息を立て始めた。
(何が“殿”だ。明日も……また殴り合いから始めるのか……?)
 可笑しくて仕方がなかった。
 彼は、彼女と歩むこれからの人生に思いを馳せた。それは鮮やかな彩に満ち溢れているだろうと思った。
 いつしか芽生え育っていた生きている実感。命の燃える感覚と歓び。彼はそれに気づき、微笑んだ。
 だが、その微笑みは直ぐに消え、切なそうに彼女の寝顔を見つめた。ふと脳裏を過ったことがあったのだ。
(俺はこの先も、何度となく戦に出るだろう。死ぬのは怖くない。だが、死ぬのは……哀しくて寂しいのかもしれん。)
 この瞬間がこの上もなく愛しいものに感じた。
 彼は子猫を抱くように、そっと彼女を抱き締めた。


 翌朝早く、夜中心配していたソラヤの乳母が、耐えかねてこっそり寝室を覗いた。
 調度が乱れている。乳母はぎょっとした。恐る恐る寝台の上を遠目に窺うと、布団が一か所だけこんもり盛り上がっているのが見えた。
 乳母はくすくす笑って、そのまま扉を閉じた。

 陽が高くなった。控えの近習は主が起き出してこないのを案じ、声をかけた。
 扉が静かに開き、ローラントが顔を出した。唇は切れ、顔には殴られた痕がついて、鼻血の垂れた痕があった。髪はこれ以上ないくらいに乱れ切っている。
 近習は絶句した。
「奥方はまだ眠っている。……この顔だ。今日は屋敷にいる。」
 近習の応えも待たず、扉が閉じた。
 しばらくすると、ローラントの笑い声が聞こえた。
 未だかつて誰も聞いたことのない、朗らかな、心から楽しそうな笑い声だった。


     もしも 花弁が揺れるなら
     金の手綱に 銀の鞍
     千里の優駿 駆けさせて
     あの星すべて 集めとり
     お前の髪に 飾るだろう


 ローラントは、草原の戦士がかつてアンフィサに捧げた賛歌を歌って聞かせた。
 ソラヤの応えは、ごく自然な女言葉だった。
「星などいらないわ。殿さまの笑窪の方が、ずっと価値があります。」


             おしまい


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