9.

 翌朝。二人は日の出の直後に目覚め、シークと面談を望んだが、叶えられなかった。シークは日の出前に、草原へ出たということだった。
 本来、シークの生活の場は草原の天幕であり、そこに家族も住んでいるのだと教えられた。たまたま怪我をしたから、屋敷に滞在していたのだという。
 リオネルは偶然に感謝した。
「それで、今日はここへ帰ってこられるのか?」
「さあ……。三室さまをお連れになったのなら、お戻りにはならんかもしれんな。」
 二人はリンを探した。奥殿にいると厄介だと思ったが、彼女は中庭であっさり見つかった。
 夜にはわからなかったが、庭は花樹と鑓水のある美しいものだった。そこに何羽か孔雀がおり、彼女はそれに餌をやっていた。朝陽に金髪が透け、ほっそりした全身が光に包まれている。楽園の絵画のようだった。
 リオネルは、シークが今晩戻るのだと安心し、部屋に戻ろうとエレナを促した。
 しかし、エレナは拒んだ。そればかりか
「リオネルがいると、リンは話がしにくいみたいだから、部屋に戻っていて。」
と言った。
「何を話すつもりか想像がつくけれど……止めても、聞かないのだろう?」
「ええ、もちろん。」
「“止めておけばよかった”なんて泣き言を聞かされるのかな?」
「泣き言なんか言わない。」
「言ってもいいよ。泣いているお前を慰めるのは悪くない。」
 リオネルはにっと笑って、立ち去った。

 庭に目をやると、リンが見つめていた。やりとりが聞こえて、気づいたのだろう。怯えた顔をしている。
 逃げられては困る。エレナは慌てて声をかけた。
「ねえ! 少し話をしたいの。」
 リンは立ち尽くして俯いている。エレナは歩み寄った。すぐ前に立つと、リンは後ずさりした。
「私、血は飲まない。豚は食べるけれど、あなたたちが羊を食べるのと同じことよ。あなたに酷いことはしない。」
 リンは落ち着きなく視線を彷徨わせた。そして、小走りに鑓水の側へ向かうと、残っていた餌をばらまいて戻って来た。
「……何か、私に……?」
 消え入るような声だ。視線はやはり合わせようとしない。
「大丈夫。乱暴はしない。……そこへ座って……話をしたいだけ。」
 小鳥か小動物でも手なずける要領で宥めると、リンはようやく従った。
「えっと……私はエレナ。キャメロンの王国のクルジェという所の生まれ。」
「ええ……」
 エレナの期待に反して、リンは自分を名乗らなかった。
「リン。ハティが名前を教えてくれた。」
「ええ……」
「あなたはここで幸せなの?」
「え? ……食べられるし……安心していられるし……綺麗な物も着せてもらえるし……何が?」
「あの男でいいの?」
「あの男って、セブラン?」
 名前を言われて、エレナは戸惑った。誰もが“シーク”と称号で呼んでいたからだ。そう言えば、そういう名前だったと思い出した。
「ええ。セブランとはずいぶん歳が違うでしょう? あなたは十四歳だとか。彼は、三十はとうに超えている。」
「それが?」
「それが、って……それに、あなたは三番目の妻だって言っていた。他に二人も奥さんがいる男なのよ?」
「……あなたの言うこと、よくわからない……。力のある男が妻をたくさん持つのは、当たり前のことじゃない。」
 リンは眉根を寄せ、不思議そうにエレナを見つめた。エレナは、多妻の習慣を批判することは止めた。
「でも……ほら、他に三人いたのでしょう? あなたを妻に欲しいという男が。例えば、ハティはあなたと歳も近いだろうし、まだ奥さんがいないそうじゃない。そっちの方がよさそうよ? どうして、セブランにしたの?」
「……ハティが私を捕まえた時、二人の戦士がハティから私を取りあげようとしたの。取っ組み合いになって……。セブランが取りなしをして、誰が私を妻にするかって訊いた。」
 それは、セブランの昨夜の話とは違う。ハティの話とも微妙に違っていた。
「ん? セブランは? あなたを妻にするって言ったんじゃないの?」
「違う。……戦士のうちの一人は、妻にするつもりはなくて去った。セブランは私に、誰の妻になりたいか訊いた。ハティは乱暴で、言うことも刺々しくて……。もう一人は、私が違う部族の女だからって低く見ていた。だから、セブランがいいって言った。」
「……誰も選ばなかったら?」
「……ハティの奴婢になる。捕えたのはハティだから。」
 エレナはため息をついた。
「あなたの言うのを聞くと、他にしようがなかったから、セブランを選んだだけに思えるわ。」
「私は奴婢にされるのは嫌だったわ。セブランは、あなたは年が離れすぎていると言うけれど、私はそうは思わない。大事にしてくれる。何か不満に思うことがあるの?」
「家族の仇でしょう?」
「今の私の家族は、セブランの家族だよ。」
「でも……」
「子を産んで、もっと家族になりたい。セブランもそう望んでいる。」
「好きなの?」
「ええ。」
 リンは至福の表情で即答した。取り繕っているなどと疑える要素はなかった。
 野蛮人だと思ったセブランが、一応リンの意思を尊重したこともわかった。信じたくはなかったが、彼のその後の行いが彼女の愛情を得ている。
 エレナにはもう言葉がなかった。

「……レニエとあなたは、キャメロンに帰りたいのでしょう?」
「ええ。」
「私、昨日セブランに訊いたの。キャメロンは遠いんでしょうって。」
「ええ……」
「そうしたら、セブランはしばらく考え込んで、話が縺れて、大事なことを聞いていなかったって言った。いつもそんな感じなの。大事なことから済ませた方がいいって言ったら、“そうするよ”ってしゅんとしていた。」
 リンはそう言って、ころころ笑った。
 エレナは耳を疑った。ここでは、男は女を好き勝手にするのが当たり前で、妻は夫に隷属しているものと思い込んでいたのに、その社会の頂点にいる男が、“戦利品”扱いした幼妻の戒めを聞き入れるというのだ。
 やがて、リオネルが姿を見せると、リンは慌てて走り去った。

 リオネルはエレナの側に腰を下ろし、リンの後姿を見送った。
「どうだった?」
 エレナは渋い顔を向けた。
「あの子、案外逞しいわ。」
 彼女はリンと話したことを繰り返した。彼は楽しげに笑い
「“概ね馴染んだな”……あれは、そういう意味だったのだな。」
と言った。
 そして、二人は声を揃えて
「馴染んだのはセブランの方!」
と言って笑い転げた。



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