2.

 レニエの領に入ってすぐの村の豪農の家。リオネルとその父であるレニエの伯爵は、最後の宿をとった。
 家の主は、にこにこと彼らを迎えた。
「ご帰還、お喜び申し上げます。都はいかがでしたかな?王さまの戴冠式は、さぞかし華やかだったのでしょうなあ。」
「そうだな。若い王と妃ゆえ、しっかりと我々が支えねばならん。」
「そりゃあもう、王さまも伯爵さまを頼りになさっておられるでしょうよ!情け深く、賢いレニエの殿さまですからな。」
「私に世辞を申す必要もないぞ。」
 農夫の口調は、まんざらお世辞でもない様子だった。

 ここ、キャメロンの国の西南部に位置するレニエの土地は、起伏に富んだ土地である。素晴らしい葡萄が実る土地だと有名だった。
しかし、今でこそ、貧しさに苦しむことも少なくなったが、かつては、地味は必ずしも肥えておらず、山からの冷たい吹きおろしがある年は、作物は実らなかった。
 そこで生きる者は一丸となって、事に当たらねばならない時代が長く続いた。天を呪うこともせず、地を恨むこともせず、彼らは粘り強く自然と向き合った。
絶え間ない開墾と、工夫。土地に根差し、共に働いてきた領主と領民の間には、強い絆があった。

 部屋には、ひとつの寝台しかない。豪農と言えど、寝台は数人で共用するものだった。各自の部屋を持ち、寝台に一人で休めるのは、裕福な貴族に限られていた。
 リオネルは寝台を見ると、ため息をつき
「また父上と同じに寝るのですか……。大百姓と見えましたが、調度は揃っていないようだ。」
と言った。
 父は、息子の尊大な物言いに顔をしかめた。それは、気位の高い彼の奥方にそっくりだった。
 思わず
「贅沢な……」
と舌打ちした。
「最高のものを求めて許される者が、この世にはわずかだが存在するのです。我々もそうです。母上は……ちょっと違う最高のものを求めなさいますね。」
 リオネルは嘲笑めいた表情を見せ、さっさと服を脱いで、寝台に上がった。それを見て、父も寝台に上がった。
「そなたは、母に似ておるな。」
 ぼそりと父が言う。批難する響きがあった。何度も言ってきたことだった。
「さようですか。嬉しくありません。母上は嫌いですから。」
 薄く笑って、酷いことを言う。それも、奥方に似ていた。
(母上か……)
 リオネルは母の白い美しい面を思い浮かべた。


 家と家のつながりの為だけに結婚した奥方と伯爵の仲は、最初からぎくしゃくしていた。
 冷たい女だった。リオネルが生まれてからは、同衾することはおろか、食事を共にすることも、誰かの招きに同行することもない。
 名ばかりの奥方は、伯爵が何をしようが口を挟むことは無かった。
「わたくしこそが、レニエの奥方ですから。そのような些細なことに、構っておられませんわ。」
と言っては、つんとすまして、貴婦人同士の遊びにばかり興じている女だった。
 彼女の重要事項は、名家であるカスティル=レニエ家の奥方であることだけだった。
 もちろん、リオネルに愛情をかけることもない。産んだ後は、全てひとに任せ、ほとんど会うこともなかった。会っても一言
「元気ですか?」
としか声をかけなかった。
 それすらないこともある。一瞥するだけで、顔をしかめて、彼を退出させることも多かった。
 リオネルにとっては、同じ敷地に住む女という意識しかなかった。そして、母である以前に、冷たい女だと思う気持ち。
 当然、好感はない。

 少し前のことだった。
 母に会い、無言で退出を促された時、扉の向こうで、彼女が友人の貴婦人相手に
「息子の青い瞳。ぞっとするの。父親と同じ。この家の男の特長だと言うけれど……。鬼神の青い目です。おぞましいわ。」
と不愉快そうに託っているのを聞いた。
 “鬼神”という言葉が耳に残り、年寄りの従者に尋ねた。
 彼は
「若さまは、あの黒い塔の話をご存知ないのですなあ。」
と言って、この城についての伝説を教えてくれた。

 かつて、後継ぎに恵まれない奥方が鬼神を召喚し、交わりを持って子を成した。
 夫の伯爵は激怒し、畏れ、奥方を塔に閉じ込めた。
 出産は難産だった。奥方の許に鬼神が現れ、それを助けた。その際、鬼神のまとっていた炎の衣が塔を焼いた。業火に奥方も焼かれた。
 鬼神は赤ん坊を伯爵に与え
「我は常に共にある。忘れるな。」
と、恐ろしい形相で睨んだ。
 赤ん坊は、鬼神と同じ暗い青い瞳をしていた。
 伯爵は恐れ、鬼神に塔を捧げ祀った。それ以来、カスティル=レニエ家の男たちは、この色の瞳を持って生まれた。
 数代下ると、焼け焦げた塔を解体しようとする主が何人か出た。しかし、人夫を集め始めると、必ず主に死が訪れた。
 みな、鬼神の怒りに触れたのだと言い、塔をどうにかしようとはしなくなった。不吉だと小声で囁かれ、口に出すことすら憚られながら、塔は今も城の一角にそびえている。

「鬼神?魔神ではないのか?」
「鬼神は、魔とはまったく違います。神でございますよ。ひとには計り知れない法で動く、荒ぶる神。」
 従者はそう言って、黒い塔を眺め、うっそりと頭を下げた。鬼神に礼をしているようだった。
 “ひとには計り知れない法”。ひとにとって、時に善となり、禍ともなるということだと、リオネルは理解した。
 その伝説が真実なら、自分は人間を超える存在の血を引いているということだと、彼は怖れるどころか、小気味よいとさえ思った。


 そんなことを思い出していると、父が
「王のことだが……」
と話しかけた。
「ああ、戴冠式は立派なものでしたね。」
 淡々と応える息子に、また父は嘆息した。
「若い王の許……国はそうそうまとまらないのかもしれない。」
「それをご心配だったのですか。なるほど、さようですね。戦乱が近々あるのかもしれない。」
 息子は楽しそうだった。
「そなたは……世が乱れるのを望んでいるのか?」
 低くたしなめると
「いいえ。何か……命を懸けられるものを求めているだけです。」
と軽く笑っていた。
 父は呆れ、それ以上のことは言わなかった。
 リオネルは自分の横たわっている寝台をそっと押してみた。中に詰められている藁がかさりと音をたてた。掛けている毛布が肌をちくちくと刺激する。
 彼は眉をひそめた。
(この大百姓はもとより、領民すべてが羽毛の布団で眠れるようにならねばならん……)



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